2008年9月 9日 (火)

第114回:知財関連の予算要求

 知財関連予算は国家予算全体と比べると問題にならない位少ないので、今までほとんど予算関係の話はしてこなかったのだが、各省から来年度の概算要求の資料が出てきているので、念のため、ここで予算関係の話をまとめて書いておきたいと思う。

(知財関連全てとなると、本当は種苗法を抱えている農水省など他の省庁の資料も見ないといけないのだが、ここでは、知財・情報・コンテンツに関連する主要3省庁(経済産業省・総務省・文部科学省)を取り上げたい。)

 経済産業省HPの概算要求資料の中の「平成21年度 知的財産政策関係概算要求の概要」(知財情報局の記事も参照)によると、特許を中心とする知財関係の予算要求は、1228億円と去年と同じ額であり、その半分以上が、特許審査の迅速化・特許関連の情報システム開発に使われるという内容になっている。

 ただ、もう少し知財・情報・コンテンツ関連ということでもう少し広く取ると、関係予算は他にも多少ちらばっており、「平成21年度 経済産業政策の重点」では、第14ページからの「イノベーションによる新しい国富の創造」という項目で、「イノベーション創造機構」と称する何をしたいのだか良く分からない機構の創設のために財投会計で500億円要求していたり、次世代検索エンジン開発のために去年と同じ41億円を要求していたり、第16ページからの「グローバルな活力の取り込み」という項目で、コンテンツ関連予算として、JAPAN国際コンテンツフェスティバルなどの開催のために数十億円くらいを要求していたりするので、注意が必要である。(なお、予算とどれほど関係しているのか分からないが、同資料中には、技術情報の流出防止についても書かれている。)

 特許審査の遅延という大問題を抱え、その処理に実務的にコストを割かざるを得ない特許関連の予算はさておくとしても(情報システム開発で大手ITベンダーと癒着するのではないかなど多少不安はあるのだが)、他の予算は単なるばらまきにしかならないのではないかという疑念はぬぐえない。この要求がそのまま通るかどうかは良く分からないが、特にイノベーション創造機構の創設など、天下り先をまたムダに作りたいとしか見えないひどい話である。

 また、総務省についても見ていくと、日経のネット記事によると、地デジ対策に総額600億円、中でも受信機対策に128億円と大幅な増額を要求しているらしいが、総務省HPにアップされている概要資料では地デジ対策の予算額は「2011年地上デジタル放送への完全移行に向けた総合対策」に11.9億円と書かれているだけで、どうなっているのか良く分からない。受信機対策も電波利用財源と書かれているだけで、いくら要求しているのか不明である。地デジ対策に、携帯電話から徴収される税金が大部分を占める電波利用財源を充当すること自体どうかと思うが、電波利用料にしても限りある財源なので、総務省はどこから金をかき集めてくるつもりなのか。そしてまた、3年間同額程度の予算で生活保護世帯を中心に百数十万世帯程度に受信機・アンテナ対策を施したとしても、対策としては恐らく不十分だろう。これでは、大多数を占める一般消費者の混乱は避けられないに違いない。

 また、IP NEXTの記事(読売の転載記事)によると、サイバー特区の導入のために20億円(総務省の概要資料ではユビキタス特区という言葉が使われ、40億円の予算要求がされてているが、同じものかどうかは不明)を要求しているらしいが、著作権者が認めたものを利用者が加工・編集できるのは当たり前の話なので、何が特区なのか良く分からない上、今ネット上で様々な場が既に作られている以上に、20億円もかけて一体何を作るつもりなのかさっぱり良く分からない。

 総務省の他の情報関係予算も、地道なインフラ整備を除けば、経産省とかぶり、やはり単なるばらまきにしかならないのではないかと思われるものが多い。

(しかし、総務省の概要資料だが、国の資料に大真面目に「クリエイティブ産業の強化」として、「国内の知的資産をデジタル化し、ネット上で共有・利用できる仕組みを構築する『デジタル文明開化プロジェクト』を産学官の関係機関と連携して総合的に推進し、日本の情報自給率を向上」すると書かれているのはどうにかならないものか。とにかく何でも良いから目新しいキーワードを作れば良いというものではないだろう。)

 文部科学省のHPでは文化庁の資料がアップされていないので、詳細は不明だが、「平成21年度 概算要求主要事項」によると、「文化芸術創造プランの推進」に181億円程度を、「日本文化の戦略的発信」に525億円程度を要求している。これらの予算要求も実際にどれくらいが確保されるのか分からないが、文化・著作権関係団体へのばらまきに使われることになるのだろう。

 なお、各省庁とも、ネット上の違法・有害情報対策として、同じような内容で予算を要求しているのはどうかと思うが、文科省が、その予算において「情報モラル教育の推進」に多少なりとも力を入れようとしていることが見て取れることは素直に評価したい。

 予算については、財源をどうするか、負担者・受益者間のバランスをどうするか、コストに見合うだけの国民的なメリットがあるかという観点から、国全体で施策のバランスを図らなくてはいけないはずだが、知財・情報・コンテンツ関連だけを取ってもそれが出来ているとはあまり言えない状況なのは、何とも残念である。

 知財に限らず、他の予算についても、問題の根は一緒である。高度経済成長期くらいまでならいざ知らず、経済的に成長し、主要インフラも整い、世界企業をいくつも抱えるようになった今となっては、本当に国家レベルで効率を度外視して行わなければならない事業を除き、国家が的はずれな予算額で事業・産業振興に乗り出す意味はもはや無くなっているだろう。非競争的にノーリスクでばらまかれる金は、ほぼ、既得権益者の無為を助長し、国家全体の経済原則による効率化を妨げ、問題を無意味に先延ばしすることにしかつながらないのである。

 比較の問題で知財問題が埋もれてしまうのはやむを得ず、もはや知財問題を超えてしまうのだが、今後、与野党ともに、選挙向けにハリボテのばらまき政策を打ち出してくることが容易く想像されるのには実にうんざりさせられる。既得権益・利権保護・路線を踏襲するのはいい加減止めにしてもらいたいと私は心から思う。小泉元総理が後に残し、安倍前総理が役人に厳しい政治をモットーに手をつけて失敗し、福田総理が役人に優しい政治を進めて国民の信頼を失った年金、道路、天下りなどの各種大問題は、さらなる予算のばらまきによって先延ばしにすることが許されるようなレベルの問題ではもはや無くなっている。政治に向けられている国民の目は非常にシビアであり、選挙の1票は常に各国民の手の中にある。次の総選挙では良くも悪くも国民の審判が下されることになるだろう。

(9月10日の追記:いまさら感が漂うが、経産省も「コンテンツ取引と法制度のあり方に関する研究会」と称して、私的複製やDRMなどコンテンツの取引と制度に関する検討をこの9月1日から始めたようなので、念のため、ITproの記事開催趣旨等第1回議事要旨等へリンクを張っておく。

(9月14日の追記:まじっく様、ありがとうございます。指摘箇所の誤記を直しました。)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

第2回:知財・情報・独占

~誰もが分かっているようでいて実は誰もよく分かっていない三題噺~

 さて、より具体的ではあるが、やはり前提の話にもう少しおつきあい頂きたい。

 知的財産とは何であろか。単純なようでいて難しいこの問いにどれくらいの人間が真摯に取り組んでいるだろうか。法律屋は法律で決まっている人工的な世界と認識し、普通の人は、何となく所与のものとして認識しているのだろう。
 特に、人間が生み出した知識、すなわわち情報に何らかの価値があり、財産として認識されるということはいかなることであるか。この概念の認識は、人によってかなりずれているに違いない。
 ここでは、情報に価値がある場合として、情報そのものが価値を持つ場合と、情報そのものではなく、その利用に価値がある場合の二つに分けて考える。

(1)情報そのものが価値を持つ場合情報そのものを独占し、知的財産を生む
 誰でも知っている情報に価値はなく、情報そのものが価値を持つには、情報の偏在が存在していなければならない。このように情報そのものから何らかの財産的価値を引き出し続けようとする者は、自身の情報を誰かに伝えた後も何らかの方法でこれをコントロールし、その偏在を維持し続けなければならない。
 このようなコントロールは、法律によっても良いし、契約によっても良いし、技術によっても良いし、時間・空間によっても良いが、人が知り得た情報のさらなる伝達を妨げることは、人の精神的自由を束縛することに他ならず、現実問題、最後、情報そのもののコントロールはほとんど不可能であると言っても差し支えない。

(2)情報の利用に価値がある場合情報の利用を独占し、知的財産を生む
 情報を何らかの形で利用することに価値が生じる場合もある。この場合、情報そのもののコントロールをせずとも、その利用をコントロールすれば、その財産的価値を維持することが可能である。ただし、この利用が純粋に情報のみの世界に閉じる場合には、上記の場合と同じくコントロールが困難となることは言うまでもなく、現実には、物の世界に対する情報の利用をコントロールすることが基本となるであろう。

 さて、ここまで説明してきたところで、今現在、法律によって存在している知的財産を考えてみると、基本的に知的財産各法は(1)のケースのように情報そのものではなく、(2)のケースのように情報の利用をコントロールするという考え方に基づいて立てられていると分かるだろう。
 特許であれば、特許情報を公報という形で誰にでも見られる形で公開し、特許された技術について、その業として特許を利用した物の販売等を独占することになる。意匠・商標等についても、この点においてそれほど大きな違いはない。

 ただし、著作権法だけは特殊である。
 著作権法でも、オリジナルと複製が区別されていた時代は、オリジナルに対する複製という利用形態をコントロールすれば良く、上記(2)のケースと同様に考えられた訳だが、情報技術の進展によって、著作物そのものの情報化が進んでしまった。著作物は単なる情報となる方向へ、そのコントロールは不能となる方向へと現状突き進んでおり、これにあらがう形で最近の著作権保護強化の主張は上記(1)の情報独占を求める方向へと足を踏み入れつつある。
 私は、現在の文化と産業を考えて拙速に保護強化を行い、情報の作成者あるいは政府が情報そのもののコントロールを行えるような情報統制国家をもたらすよりは、情報そのもののコントロールはあきらめ、情報の利用のみに独占を閉じた方が、長期的には文化的にも産業的にも良いと考えている。今の法学者・行政府担当者・立法府担当者の頭の固さから考えると、著作権において、情報の利用とはいかなるものかということが考えられることは今後10年経ってもあるかどうか疑わしいが、このことを考える際には、情報そのもの伝達が複製行為によってなされることが当たり前となっていることを踏まえ、その基礎となる利用態様を複製行為そのものとはなし得ないことを出発点としなければならないだろう。

 もう少し著作権法の特殊性について書きたいと思っているところだが、次回は、少し寄り道をして、放送法と通信法の本質について少し書く予定。

| | コメント (0) | トラックバック (0)