第214回:表現の自由の一般論(その2:表現の自由に関する違憲基準)
第210回の続きで、今回は、表現の自由に関する違憲基準の話をまとめておきたい。表現の自由も絶対無制約ではあり得ないが、表現の自由は最も基本的な権利の1つであり、その制約は厳格な逆制約を受けるのである。やはり、最初に、以下はあくまで個人的なまとめであることをお断りしておく。(wikiでも良いのだが、より詳しくは、芦部信喜先生の「憲法」、「憲法学」、佐藤幸治先生の「憲法」、伊藤正己先生の「憲法」、長谷部恭男先生の「憲法」、浦部法穂先生の「憲法」等々の著名な憲法学の教科書を直接ご覧頂ければと思う。)
第76回で書いた通り、ざっくりと言えば、表現の自由を中心とする精神的自由は全ての自由一般の基礎であり、これを規制する立法の合憲性は特に厳しい基準によって審査されなくてはならないとされ、特に「検閲」となる事前抑制型の規制が絶対に許されないのは勿論のこと、表現の自由に関する規制に関しては、規制目的が正当かつ重大であり、規制を正当化するに足る根拠が十分に明確であることに加え、表現に対する萎縮が発生しないよう規制範囲も明確でなければならないということになるのだが、教科書に書かれていることなども含めもう少し詳しく書いて行く。
第210回で書いた通り、表現の自由を中心とする精神的自由権こそ自由な民主主義社会の最重要の基礎でありながら、不当な制限を受けやすい権利であること、憲法解釈上、財産権(第29条)や居住・移転・職業選択の自由(第22条)などの代表的経済的自由権においては、公共の福祉の制約を受けることが明文で規定されているが、表現の自由(第21条)においてはこのような公共の福祉に対する言及がなく、法文上絶対的な保障の形式が取られ、2つの自由権の間に差異が認められていることなどから、経済的自由権と比べて表現の自由を中心とする精神的自由権は優越的地位を有しているとする「2重の基準」説が通説上広く支持されており、判例にも取り入れられている。
すなわち、経済的自由権を含む一般の立法については、議会の制定した法律として合憲性の推定を受け、その当事者がその違憲性を証明する必要があるとされ、「合理性の基準」(あくまで原則としてであるが、国民の生命と安全を守るために取られる消極的・警察的規制に対しては、その規制の必要性・合理性と同じ目的を達成できるよりゆるやかな規制手段の有無を元に判断する「厳格な合理性の基準」が、積極的・社会経済政策的規制に対しては、規制措置が著しく不合理であることの明白な場合に限って違憲とするという「明白性の原理」が適用される)という緩やかな違憲基準が適用されることになるが、このような一般の立法と比べ、法的に強い保障が与えられている表現の自由を制約する立法については、むしろ違憲性の推定がされ、より厳格な基準によらなければらないとされている。表現の自由を制約する立法については、規制を正当化するに足る根拠が明確に存在しており、規制の程度・手段が規制目的を達成する上で必要最小限のものであることが十分に規制権力側によって示されなければならないことに加え、検閲・事前抑制の禁止の法理と漠然性・過度の広汎性の故に無効の法理などがさらに適用されることになっているのである。
検閲は、狭義には、公権力が外に発表されるべき表現の内容をあらかじめ審査し、不適当と認めるときは、その発表を禁止する行為と解されているが、このような狭い解釈は学説上も多く批判されている。「検閲」という語をを狭く解釈することで、このような禁止の実質的なすり抜けが許されてはならないのであり、純粋な意味での公権力に限らず、これに準じる機関・団体を通じて間接的に行われるものも検閲に当然含まれてしかるべきと、また、例え事後規制であろうと、表現物の発表・流通を完全に抑制しかねない規制も検閲に該当するとする方が妥当であり、表現の自由には消極的な情報入手・収集権も含めた知る権利・情報アクセス権が含まれていることから、情報アクセスそのものの抑制も検閲に該当すると私は考えている。
漠然性・過度の広汎性の故に無効の法理は、表現行為に対する萎縮効果を最小限にしなければならないという憲法から必然的に導かれる要請から確立されているものであり、必ずしも厳密な区別が可能な訳ではないが、漠然性の故に無効の法理は、法文が不明確な場合は原則として法規それ自体が違憲であるとするものであり、過度の広汎性の故に無効の法理は、法文は一応明確でも、規制の範囲があまりにも広汎で違憲的に適用される可能性のある場合についても違憲とするものである。また、このような明確性の原理から、当然のように、表現の自由を規制する法令については、その意味を裁判所で憲法に適合するように解釈して違憲判断を避ける通常の意味での合憲限定解釈が許されないこともきちんと知っておく必要がある(wikiも参照)。解釈の不要な法律は無いが、表現行為に対する萎縮を発生させてはならないという憲法から必然的に導かれる要請から、表現の自由を規制する法律に関する限り、その解釈の明確性の判断基準はあくまで一般国民におかれるのである。(最近は、行政あるいは立法機関が、規制の範囲を曖昧・不明確にしたまま、まず規制ありきで規制強化の議論を行うことも間々見られるが、このような議論の仕方は法外なデタラメである。)
表現の自由についてはこのような厳格な基準が用いられなければならないこととされているが、表現の自由に対する制約としては、その正当化事由としての公共の福祉との関係についても気をつけておく必要がある。表現の自由は、外的な表現行為に関わるため、他人又は公共の福祉との抵触の問題は当然避けられないが、他人の基本的な権利と抵触する場合の調整が必要であるのは無論のこととしても、公共の福祉という抽象的かつ曖昧な概念によってあらゆる基本的人権に対する制限が一律正当化されるとすることは、実質基本的人権の保障をないがしろにすることにつながることであり、厳に戒められなくてはならないのである。特に、第210回でも書いたように、表現の自由は、少数の表現・意見・思想を単にそれが少数であることのみをもって規制・弾圧することを許さないことも保障しているのであり、多数者の利益・意見のみをもって公共の福祉となし、表現の自由に関する制約が正当化されるとすることは決してあってはならないことである。(wikiに書かれている通り、公共の福祉についても様々なことが言われているが、公共の福祉によってあらゆる基本的人権を制約可能であるとする説は今ではほとんど全くと言って良いほど支持されていない。)
表現の自由について公共の福祉による制約がどこまで可能であるかということは極めてナイーブな問題だが、表現の自由に関する制約の公共の福祉による正当化の余地は極めて狭いという立場に私は立つ。まずはっきりしていることは、最も根本的なプライバシーに属する個人的な情報所持・情報アクセスの規制について公共の福祉によって正当化されることはあり得ないということである。また、表現の内容にかかわる規制について、それが他人の権利を害するものでない場合に、それが公共の福祉によって正当化されることも実質ないに違いない。かろうじて、表現の内容にかかわらない時・場所・方法などに関する表現内容中立規制についての場合のみ、公共の福祉によって正当化されることが考えられるが、これも公共の福祉といった抽象的かつ曖昧な概念のみをもって正当化されてはならず、上で書いた通り、具体的な状況に応じ、厳格な違憲審査基準に服さなければならないのは無論のことである。公共の福祉によっても、抽象的かつ曖昧な概念に基づく規制を認める余地は無く、かろうじて実際に具体的に存在している人間の集合的な場所・公共の場所における表現内容中立的な表現の自由の制約のみ認め得る余地があると私は考えているのである。(表現の内容にかかわる規制と、表現の内容にかかわらない時・場所・方法などに関する表現内容中立規制についての区別も、あらゆる場合で明確である訳では無く、実際にはいろいろと難しい問題を含んでいるが。また、他人の権利との調整の問題も決して単純では無く、極めて難しい問題である。)
また、日本の判例では必ずしも採用されている訳では無いが、アメリカの影響はやはり強く、教科書などには良く載っているので、ここで一緒にアメリカの違憲基準のことも少し紹介しておく。
アメリカで用いられている有名な表現の自由に関する違憲審査基準に、「明白かつ現在の危険(Clear and Present Danger)」の基準がある。この基準は、(1)ある行為が近い将来、ある実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること、(2)その実質的害悪が極めて重大であり、その重大な害悪の発生が時間的に切迫していること、(3)規制手段がその害悪を避けるのに必要不可欠であることの3つの要件の存在が証明された時のみ、表現行為を規制することができるとするものである。考えてみれば分かると思うが、この「明白かつ現在の危険」の基準は、表現の内容にかかわる規制に適用されるものとして極めて厳格なものであり、自由の制約が違憲とされやすいという特徴がある。(wikiも参照。)
同じく厳格なものとしてアメリカで用いられている基準に、「やむにやまれぬ必要不可欠な公共の利益(Compelling Interest)」の基準というものもある。この基準は、立法が目的とする公共の利益の重要性を分け、(1)その公共の利益が、重要性が最高度に高い、やむにやまれぬ必要不可欠なものでなければならず、(2)規制手段が、その公共の利益のみを達成する本当に必要な最小限度のものとして厳密に定められていなければならないとするものである。
どちらかと言えば表現内容には直接かかわりのない表現内容中立規制に対して適用されるとされているものであるが、もう1つ有名なものとして、立法目的は十分に正当なものとして是認できる場合であっても、立法目的を達成するため規制の程度のより少ない手段が存在するかどうかを実質的・具体的に審査し、それがあり得る場合には、その立法は過度に広汎であり違憲とする、「より制限的でない他の選び得る手段(Less Restrictive Alternative)」といった基準もある。
これら以外の基準もあり、加えてアメリカは判例法の国であるため様々な判例が実際にどのような状況で適用されたかということが重要となり、実際には、その違憲基準は通常の理解を超えるほど複雑怪奇を極める。(アメリカ法に対する理解も不十分なまま、デタラメに国際動向を唱えるバカも後を絶たないが、例えば、架空の児童を描写したポルノを対象とする、いわゆる児童ポルノを理由とした創作物規制について、個別の事件はどうあれ、アメリカの違憲基準に基づいて最終的に合憲とされる余地はほとんどない。ただし、アメリカで児童ポルノを理由とした魔女狩りの嵐が吹き荒れていることからも分かるように、児童ポルノ規制と表現の自由の問題、特に情報の単純所持規制と表現の自由の問題については、残念ながら、まだアメリカでもその問題の本質が十分に理解されているとは言い難い。またどこかで余裕あれば、まとめて紹介したいと思っているが、法規制の本当の意味での海外動向に関する議論は、最も良く取り上げられるアメリカについてすら今の日本では不十分であり、さらに欧州・英独仏などの動向となると主要国と言いながら目も当てられない状況である。)
どの国のどの基準を取るにせよ、一番上に書いた通り、ざっくりと言えば、表現の自由に関する規制に関しては、特に厳格な基準に服し、規制目的が正当かつ重大であり、規制を正当化するに足る根拠が十分に明確であることに加え、表現に対する萎縮が発生しないよう規制範囲も明確でなければならないということになるが、判例や学説で長年に渡って練り上げられて来た様々な違憲基準・憲法解釈を良く理解しておくことは非常に重要である。
自由の中の自由、自由な民主主義社会の最重要の基礎である表現の自由を、公権力の中にあって、自身が気に食わない、自分たちにとって都合が悪いという理由のみで不当に制限しようとする者たちは今まで絶えたことは無かったし、これからも絶えることは無いだろう。彼らは常に、国民の無知につけ込み、憲法を、公共の福祉を自分たちに都合の良いようにのみ解釈して、一般的な表現弾圧を正当化しようとするが、公共の福祉によっても、抽象的かつ曖昧な概念に基づいて表現規制・言論弾圧が認められるなどとする余地は全く無いのである。繰り返しになるが、表現の自由の、憲法の本質はこのような不当な権力の行使を規制することにある。統制を受けない権力は必ず腐敗し、暴走する。必要なのは権力による統制では無くて、権力の統制である。今の情報化社会にあって、憲法論の重要性は増しことすれ、減っていることはカケラも無い。
本当は、表現に関する具体的な規制に対して違憲基準がどう適用されると考えられるかについても一緒に書きたいと思っていたが、違憲基準一般の話だけで長くなり過ぎてしまったので、その話はまた次回に。
最後に少し最近のニュースも紹介しておくが、海賊版対策条約(ACTA)について、オタワ大教授マイケル・ガイスト氏のブログ記事に書かれている通り、欧州委員会が、欧州議会議員の質問に対し、ACTAは、大規模な違法行為を対象とするもので、インターネットにおける情報アクセスなどユーザーの基本的な権利を制限するものではないという簡単な回答を出している。しかし、権利者団体がストライクポリシーを求めているのも事実であり、これだけの説明では到底十分とは言えない。ACTAについては、引き続き大いに注意が必要である。
マイコミジャーナルの記事、BBCの記事になっている通り(人権侵害の可能性があるとする英国人権委員会上院の報告書も参照)、イギリスでは、第206回で取り上げたイギリス版ストライク法案であるデジタル経済法案が、フランスと全く同じように人権問題に発展し、当初から審議の難航が予想される展開となっている。
イタリアにおける動画サイトを規制しようとする動きについて、同じくマイコミジャーナルの記事になっているので、これもリンクを張っておく。イタリアの問題は、実質ベルルスコーニ問題ではあるが、イタリア市民の反対によってこのような規制の導入が阻止されることを心から願う。
また、文化庁では、2月15日に文化審議会・著作権審議会が開催され、2月18日にはその法制問題小委員会が開催される。今期最大の懸念として一般フェアユース条項の導入の議論が引き続き行われることとなっており、文化庁からも目は離せない。
(2月11日夜の追記:日経の記事1、記事2になっているように、知財本部でも次の知財計画を作るための検討が始まる。「映画や音楽などの制作者の育成策を協議する調査会」も育成策にとどまるならともかく、例によって意味不明の理屈からロクでもない著作権保護強化を盛り込んでくる恐れがあるので気をつけておいた方が良いだろうが、今一番要注意なのは、2月16日に第1回が開催される「インターネット上の著作権侵害コンテンツ対策に関するワーキンググループ」(開催案内)だろう。記事にあるように、ここで間違いなく技術的な著作権検閲と3ストライクポリシーの導入の検討がされるだろうし、海賊版対策条約(ACTA)も恐らく一緒に議論されると考えられる。)
(2月14日の追記:去年の5月にその司法取引について騒がれたアメリカの日本の漫画コレクターのアダルトコミック輸入・所持事件について(wired visionの記事参照)、6月の禁固刑(5年の執行猶予付き)が宣告されたとの続報が出されているが(wired.comの記事、animenewsnetwork.comの記事参照)、この事件は州法に基づくものではなく、必ずしも正確な記述では無かったので、上の文章中の「各州の州法に基づくのだろう個別の事件はどうあれ」を「個別の事件はどうあれ」に改めた。この日本の漫画コレクターの事件で使われた法律も、アメリカの違憲基準に基づいて最終的に合憲とされる余地はほとんどない。この事件では、警察・検察が陪審制のバイアスと司法取引制度をかなり卑劣に使って容疑者を有罪に嵌めており、できることならさらに控訴してもらいたいものと私は思っている。)
(2月15日の追記:オタワ大教授のマイケル・ガイスト氏が、そのブログ記事で、米国通商代表部の人間が、やはり強制的な3ストライクは海賊版対策条約(ACTA)に入らないと言ったとする話を紹介しているが、ガイスト教授の「これは全てのことを語っていない。第1に、海賊版対策条約(ACTA)がフィルタリングを強制するような条項を含んでいるとした報道は私の知る限りない。つまり、これは何も新しいことを知らせるものではない。第2に、海賊版対策条約における3ストライクの議論は、条約で第三者責任(間接侵害)を取り上げることで、3ストライクへのドアを開くとするものだったはずである。このアプローチは、米国通商部の強制的な3ストライクはないとする説明と矛盾せず、なお同じ結果をもたらすものである。第3に、カナダにとっての観点から、海賊版対策(ACTA)における実質的な関心は、決して3ストライクにとどまることはない―DRM回避規制からノーティス・アンド・テイクダウンまで、この条約にはなおカナダ法の改正を必要とする条項が多く含まれている」というコメント通り、本当に気をつけなければならないのは、直接的な形より、第三者責任(間接侵害)をねじ込んでフィルタリングなり3ストライクなりをISPに実質的に強制しその著作権警察化を図るといった形による実質的な3ストライク制の導入である。この条約に関しては、実に懸念と不安しかない。)
| 固定リンク
« 第213回:知財本部・新たな「知的財産推進計画(仮称)」の策定に向けた意見募集(2月15日〆切)への提出パブコメ | トップページ | 第215回:表現の自由の一般論(その3:情報アクセスに対する規制への表現の自由に関する違憲基準の適用) »
「規制一般」カテゴリの記事
- 第503回:主要政党の2024年衆院選公約案比較(知財政策・情報・表現規制関連)(2024.10.14)
- 第499回:暗号化技術に対するバックドアの強制の様な技術的検閲は基本的な権利に抵触するものであって認められないとする2024年2月13日の欧州人権裁判決(2024.07.07)
- 第462回:主要政党の2022年参院選公約案比較(知財政策・情報・表現規制関連)(2022.06.19)
- 第446回:主要政党の2021年衆院選公約案比較(知財政策・情報・表現規制関連)(2021.10.17)
- 第437回:閣議決定されたプロバイダー責任制限法改正案の条文(2021.03.21)
コメント