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2008年1月31日 (木)

第55回:文化は天才のみが作るものだという誤謬

 第49回で、権利者団体のみによる「Culture First」宣言など、僭越以外の何物でもないと書いたが、このような宣言の根底に流れているのは「文化とは高尚な芸術であり、常人とは異なる才能を有する者のみが連綿と作り上げてきたもの」というやはり完全に間違っている幻想だろうと思われる。第52回でコピーフリー文化の重要性について書いたところではあるが、この間違いについて今回、さらにダメ押しをしておきたい。

 確かに、今までの文化史において、天才のみが目に付くのはやむを得ないことであるが、その天才たちにしたところで、その業績は必ず先人の仕事の上に積み上げられているのであり、文化は常に無数の模倣と積み重ねのプロセスによって発展してきたということは第52回でも書いたことである。

 そして、複製コストが下がったにしても情報の流通のためにかなりの複製コストが必要である状況において、このコストの回収が可能なほどの情報発信力を発揮できる者のみが、流通事業者からの投資を受け、かなり独占的に情報発信を行っていたとしても、情報の総量の増大、文化の発展という目的から見て、これはそれなりに是認されても良かっただろうと私も思う。

 しかし、この単なる投資コスト回収のためのしきい値を、才能のしきい値と勘違いしてはならないし、この複製による投資コストの回収分配スキームに浴する者だけが情報の発信者となる権利を有すると考えることなど、絶対にあってはならないことである。「文化とは才能のある者のみが作るもの」という概念もまた、「複製=対価」という間違った概念に由来する、しきい値の勘違いから生じた、歪んだ認識に他ならないのである。

 どこであれ、人と人とのコミュニケーションがあるところにはどこでも、著作権法とは全く無関係に、常に草の根の文化活動があったことを、この草の根の文化活動に従事していた名も知れぬ人々こそ、複製コストまで含めて常に文化を本当に下で支えて来た者であることを忘れ、過去の栄光にすがり、権利と称して利権の拡張を主張する者に、文化を語ってもらいたくはない。

 誰であれ、民俗伝承の文化的価値を認めない者はいるまい。しかし、このような伝承は、名も無き民衆が世代から世代へと伝えてきたものであって、誰かの著作物ではない。さらに、今日、インターネットによって新たに切り開かれた地平の中、Wikipediaに、オープンソースコミュニティに、SNS・掲示板・ブログ等々に続々と書き込まれている情報の文化的価値を誰が否定し去ることができよう。ある表現の文化的価値は、一人で書いたか、多数で書いたか、実名で書かれたか、匿名で書かれたかなどということによるものではなく、本質的に媒体によるものでもないのである。

 そもそもインターネットは学者たちが自由かつ無償の知識共有を実現するために開発したものであるが、このインターネットというあらゆる者に平等な情報伝達手段が普及したことによって、かえって明らかになったことは、才能にしきい値などないということ、あらゆる者に創造性を発揮するポテンシャルがあるということである。昔であれば天才しかなし得なかった文化的営為が、情報の共有と多くのユーザーの参加によってなし遂げられるという新たな可能性が作られたのである。この可能性が小さなものでないどころか、文化を牽引する新たな力になっていることは、インターネットにおいて日々莫大な情報が創造され、さらに勢いを増していることからも明らかだろう。

 要するに、独占による利益のみを保護していれば文化の発展を促進していると言える時代は終わったのであり、過去のしがらみから情報独占の方に傾きすぎている著作権法の天秤を傾け直し、情報独占と情報共有との間で正しいバランスを取り戻すべき時が既に到来しているのである。

 このような本当に大きな流れを無視して、自分が認めるもののみを正しい文化として「文化」の意味を歪め、独占によってもたらされる自己の利益を最大化しようとする者が後を絶たないのは実に残念でならない。文化に正しいも正しくないもない、良いも悪いもない。文化においてあらゆる表現は平等であり、文化は万民のものである。この公平の原則に反するあらゆる不当規制は、既に存在しているものも、歪んだ政治的圧力によってこれから入るかも知れないものも、どれだけ長い時間がかかろうと、排除されて行くだろうことを私は信じて疑わない。

 結局、複製がどうとかいうせせこましい話を超え、インターネットの登場によって、しきい値のないグラデーションの中に必然的に分散する表現者に、どのようにして文化的貢献度に応じた正当な社会的報酬を与えたら良いかということが社会に今突きつけられている本当の問いである。既存の概念を全て捨て去り、インターネットの存在を前提としたとき、情報に関する社会契約はどうなるかと言い直しても良い。現実社会において全力で様々な試行錯誤が行われていることからしても、意識的にであれ無意識にであれ、あらゆる者は本能的にこの問いの存在を悟っているに違いない。

 私も一凡才として、自分なりにできる限りのことを、これからもここに書き留めて行くつもりである。

 さて、ネットで見かけた記事の簡単な批評も一緒にしておこう。
 毎日のネット記事で、調査についてはいつも通りの「ため」にする調査なので取り上げるにも値しないと思っていたのだが、違法ダウンロードに関する「盗品」理論は始めて見かけたので、少しだけ突っ込んでおきたいと思う。(Imediaの記事などを見ても、世界的に見ても同じような主張が権利者側からなされているようである。)
 すなわち、この「盗品」理論は、著作権法であれ、特許法であれ、どの知的財産権法でも、知的財産侵害品の単純購入や単純所持を禁じているものはないこと、知的財産権はあくまで社会的な便宜のために創設された人工的な権利であることを完全に忘れている。完全な情報コントロール権をその創作者に与えた場合の弊害は計り知れない。有体物の窃盗と、無体物である知的財産権の侵害を混同するのは、常に論理飛躍をもたらす危険なアナロジーであると、「海賊版、模倣品≠盗品」であると、常に肝に銘じておかなくてはならない。

 また、著作権裁判におけるインターネットサービスプロバイダーからのP2Pユーザー個人情報提出は認められないとする判決が、EU裁判所で出されたというITmediaの記事も、念のため紹介しておく。著作権に気を取られすぎて、他の大事なことを忘れてやしないかというのは、私が常々抱いている疑問であるが、著作権強権国家が居並ぶ欧州でも、このような判決が出されているのは心強い。

 次回は、これまた最近話題の著作権登録制度について自分なりの考えを書いてみたいと考えている。

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