第48回:コンテンツ産業の真の敵
今回は、産業論よりの話をしてみたい。(文化と産業は盾の両面であり完全に切り離すことはできないが、それぞれ異なる側面であることを忘れてはならない。しかし、大体どこでも文化論と産業論がごっちゃにされ、さらに議論の混乱に拍車をかけているのは実に残念である。)
インターネットにおける無許諾コピーによる途方もない被害がコンテンツ産業にとっての敵であり、この敵さえ撲滅すれば皆にとってバラ色の未来が開けるとする意見もある。
しかし、映像であれ、音楽であれ、ゲームであれ、あらゆるコンテンツの情報化が進み、インターネットの普及も爆発的に進んでいる中、そこでの無許諾コピーを、有体物の流通コストをともなう現実のコピーと同一視して、被害額を計算したら途方もない額となるのは当たり前の話であり、基本的にこのような被害額計算は全てナンセンスである。(真面目に取り合う気すら起きないが、著作権団体などが次々と出してくる報告書のバカバカしい被害額を積み上げると、コンテンツ産業は既に完全に壊滅しているという結論になるのではないか。)
現実の現象のみを見れば、別にインターネットの普及によってコンテンツ産業が全体として壊滅的なダメージを受けたということはないし、かえって新たな流通チャネルが一つ増えたことでコンテンツ販売の機会が増えたと考える方が妥当なのではないかと私は思う。(例えば、デジタルコンテンツ白書2007では、パッケージメディアのシェアは減ってはるものの、かえってコンテンツ産業全体としては規模が伸びているとしている。本当なら様々な統計と突き合わせなければならないところだが、ここで言いたいことに対する裏付けとしてはこれくらいでも良いだろう。)
確かに、個人的にも、いくらインターネットで便利になったところで、娯楽のために使用している時間と所得の割合が変わったという気は全くしない。結局、自分たちが儲からなくなったのはインターネットの所為だとする著作権団体の主張は、コンテンツの多様化と景気の動向によって自分たちの旧来のビジネスモデルのパイが相対的に減っただけであるにもかかわらず、そうと認められずにインターネットに責任転嫁をしているだけとしか私には思われない。単なる流通手段に良いも悪いもある訳がなく、旧来のビジネスモデルの敗退を流通手段の所為にしたところで、詮ないことである。
インターネット上で娯楽を探そうと思えば、別に音楽や映像を探さずとも、掲示板やブログで読んだり書いたりしたところで全く構わないのだし、それこそ、メールのやりとりを最大の娯楽にしている人もいるだろう。これらはインターネット登場前までは考えられなかったコンテンツの形態である。文化の本質は、コンテンツの消費にあるのではなく、人と人とのコミュニケーションにあるのであり、そこからどうビジネスに結びつけていくのかはその次の話である。コンテンツの多様化自体は、コンテンツ産業全体として見れば良いことでありこそすれ、決して悪いことではないはずである。(コンテンツの多様化が一部の既得権益者の不利益となり得るのは確かだが、それは全体を見た話ではない。このような一部の既得権益者のみが強い政治力をもって一国の政策判断を左右しているとしたら、それは社会全体にとって不幸な話である。多様性を規制によって潰すことはほぼ常に文化と産業にとって悪であったし、今後もあり続けることだろう。)
産業すなわち商売の基本は、いかに消費者の財布をゆるませるかということであって、それ以上でもそれ以下でもない。この商売の本質を忘れて、法律をいくらいじくったところで、旧来のビジネスモデルにこだわり続ける限り、消費者の財布がこれ以上ゆるむことはなく、その業界はさらに斜陽化の一途をたどるだけである。ビジネスとして考えれば、複製に必ず対価を求めなければならないとすることもないし、対価回収のやり方も一つではない。ビジネスの発想においてまで著作権法にとらわれる必要はどこにもないのである。様々なビジネスモデルのトライアルがなされ、ビジネス慣習を打ち破るのに時間もかかると考えられる中で、著作権を無意味に強化することは、かえって将来のビジネスモデルを阻害することになるだろう。法律に現実を合わせることは最後不可能であり、常に現実に法律を合わせるべきなのである。
だが、世の中には個別のビジネスにおいていくら努力したところで、どうにもならない社会全体の問題から派生してくる問題がある。コンテンツが娯楽品であり生活必需品でない以上、コンテンツ産業は確実に景気の影響を色濃く受けるであろうし、実に、この景気の足をこれからも引っ張り続けるであろう、少子高齢化問題と、これと日本の社会構造が組み合わさって生じたニート、フリーター、ワーキングプアと言われている層の固定化の問題こそ、日本のコンテンツ産業にとって致命的なダメージを与える真の敵となるだろうと私は考えている。
既に少子高齢化の影響は、社会の様々なところに歪みを生みつつあるが、コンテンツ産業も例外ではない。私の見る限り、既に様々なコンテンツの訴求対象年齢は確実にあがっている。訴求対象年齢が人口の中心とともにあがっていくのは、商業主義の必然ではあるが、これは、コンテンツ産業が、全体として若者を見捨てて行くという傾向であり、文化的にも産業的にも決して好ましいものではない。
文化は常に未来のものであり、過去のものとなった瞬間、その文化は死ぬのである。別に老人の老人による老人のためのコンテンツを否定するつもりはないが、若者も子供も、そのようなコンテンツに見向きもしないに違いない。今ですら、業界が日々大量に生産しているコンテンツの中に、若者や子供が本当に求めているものがどれくらいあるのか甚だ心許ない限りである。
このような既存のコンテンツ業界の有様を見て、自分たちが本当に欲しいコンテンツを自ら生み出し、自ら享受する場として、若者がインターネットを選択しているのも無理のない話である。このような表現の場の自由を守ることには、未来の文化と産業を育てるための投資と考えられなくてはならないし、このような自由を守るためにこそ社会的コストはかけられなければならない。若者への投資は、既得権益者は誰一人得をしないが、必ず社会全体にお釣りつきで返ってくるものである。(ダウンロード違法化は、このような場に既存の利権構造を持ち込もうとしているからこそ、これだけの反発を招いているのである。あれだけのパブコメを見てなお、それは無許諾無償のダウンロードを無限にしたい悪意ユーザーのなせる業だと考えている人間がいるとしたら、そんな人間は即刻気違い病院に入れた方が良い。)
コンテンツ産業が、常に盾の両面として文化の側面もあることを考えれば、商業主義によるコンテンツそのものの高年齢化の弊害を少しでも緩和するべく、政策的に若者への投資をきちんと行うべきであろうが、法律も国家予算も、政官業の既存の利権屋たちのみの間で完全に食いものにされ、若者への投資という考え方が政策的に全く出て来る余地がないのは本当に残念でならない。さらに、既存の利権では食えなくなったからと言って、若者の可能性まで食いものにしようとするに至っては言語道断である。若者の未来を摘む権利は誰にもない。
このブログをどれほどコンテンツ業界の人間が見ているかは分からないが、もし読んでいるなら、文化的な創造行為とは全て、子供の頃に見た見果てぬ夢を人に伝えようとする飽くなき欲求の発露であることを、子供と若者にこの未来への夢を見せることこそ文化に課せられた最も崇高な使命の一つであることを是非思い出してもらいたい。この未来への投資を怠ったら、法律がどうあろうと、かならず文化は産業としても衰退する。しかし、逆にこの未来への投資さえきちんとしていれば、法律ごときがどうあろうと、かならず文化は産業としても栄えるのだ。
なお、著作権関係の国際動向として、スウェーデンでは、少数派とは言え、P2Pのファイル共有を合法化しようとする国会議員グループの運動がある(英語のネット記事参照)ことを、また、カナダでは、連邦控訴裁判所が、iPodへの補償金賦課の権限はカナダ著作権委員会にないとして、iPod税を否決している(英語の記事1、記事2、記事3参照)し、カナダにおける著作権問題に対するユーザーの運動がさらに広がりを見せているようである(英語の記事参照)ことを、ここでついでに紹介しておく。
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