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2008年1月31日 (木)

第55回:文化は天才のみが作るものだという誤謬

 第49回で、権利者団体のみによる「Culture First」宣言など、僭越以外の何物でもないと書いたが、このような宣言の根底に流れているのは「文化とは高尚な芸術であり、常人とは異なる才能を有する者のみが連綿と作り上げてきたもの」というやはり完全に間違っている幻想だろうと思われる。第52回でコピーフリー文化の重要性について書いたところではあるが、この間違いについて今回、さらにダメ押しをしておきたい。

 確かに、今までの文化史において、天才のみが目に付くのはやむを得ないことであるが、その天才たちにしたところで、その業績は必ず先人の仕事の上に積み上げられているのであり、文化は常に無数の模倣と積み重ねのプロセスによって発展してきたということは第52回でも書いたことである。

 そして、複製コストが下がったにしても情報の流通のためにかなりの複製コストが必要である状況において、このコストの回収が可能なほどの情報発信力を発揮できる者のみが、流通事業者からの投資を受け、かなり独占的に情報発信を行っていたとしても、情報の総量の増大、文化の発展という目的から見て、これはそれなりに是認されても良かっただろうと私も思う。

 しかし、この単なる投資コスト回収のためのしきい値を、才能のしきい値と勘違いしてはならないし、この複製による投資コストの回収分配スキームに浴する者だけが情報の発信者となる権利を有すると考えることなど、絶対にあってはならないことである。「文化とは才能のある者のみが作るもの」という概念もまた、「複製=対価」という間違った概念に由来する、しきい値の勘違いから生じた、歪んだ認識に他ならないのである。

 どこであれ、人と人とのコミュニケーションがあるところにはどこでも、著作権法とは全く無関係に、常に草の根の文化活動があったことを、この草の根の文化活動に従事していた名も知れぬ人々こそ、複製コストまで含めて常に文化を本当に下で支えて来た者であることを忘れ、過去の栄光にすがり、権利と称して利権の拡張を主張する者に、文化を語ってもらいたくはない。

 誰であれ、民俗伝承の文化的価値を認めない者はいるまい。しかし、このような伝承は、名も無き民衆が世代から世代へと伝えてきたものであって、誰かの著作物ではない。さらに、今日、インターネットによって新たに切り開かれた地平の中、Wikipediaに、オープンソースコミュニティに、SNS・掲示板・ブログ等々に続々と書き込まれている情報の文化的価値を誰が否定し去ることができよう。ある表現の文化的価値は、一人で書いたか、多数で書いたか、実名で書かれたか、匿名で書かれたかなどということによるものではなく、本質的に媒体によるものでもないのである。

 そもそもインターネットは学者たちが自由かつ無償の知識共有を実現するために開発したものであるが、このインターネットというあらゆる者に平等な情報伝達手段が普及したことによって、かえって明らかになったことは、才能にしきい値などないということ、あらゆる者に創造性を発揮するポテンシャルがあるということである。昔であれば天才しかなし得なかった文化的営為が、情報の共有と多くのユーザーの参加によってなし遂げられるという新たな可能性が作られたのである。この可能性が小さなものでないどころか、文化を牽引する新たな力になっていることは、インターネットにおいて日々莫大な情報が創造され、さらに勢いを増していることからも明らかだろう。

 要するに、独占による利益のみを保護していれば文化の発展を促進していると言える時代は終わったのであり、過去のしがらみから情報独占の方に傾きすぎている著作権法の天秤を傾け直し、情報独占と情報共有との間で正しいバランスを取り戻すべき時が既に到来しているのである。

 このような本当に大きな流れを無視して、自分が認めるもののみを正しい文化として「文化」の意味を歪め、独占によってもたらされる自己の利益を最大化しようとする者が後を絶たないのは実に残念でならない。文化に正しいも正しくないもない、良いも悪いもない。文化においてあらゆる表現は平等であり、文化は万民のものである。この公平の原則に反するあらゆる不当規制は、既に存在しているものも、歪んだ政治的圧力によってこれから入るかも知れないものも、どれだけ長い時間がかかろうと、排除されて行くだろうことを私は信じて疑わない。

 結局、複製がどうとかいうせせこましい話を超え、インターネットの登場によって、しきい値のないグラデーションの中に必然的に分散する表現者に、どのようにして文化的貢献度に応じた正当な社会的報酬を与えたら良いかということが社会に今突きつけられている本当の問いである。既存の概念を全て捨て去り、インターネットの存在を前提としたとき、情報に関する社会契約はどうなるかと言い直しても良い。現実社会において全力で様々な試行錯誤が行われていることからしても、意識的にであれ無意識にであれ、あらゆる者は本能的にこの問いの存在を悟っているに違いない。

 私も一凡才として、自分なりにできる限りのことを、これからもここに書き留めて行くつもりである。

 さて、ネットで見かけた記事の簡単な批評も一緒にしておこう。
 毎日のネット記事で、調査についてはいつも通りの「ため」にする調査なので取り上げるにも値しないと思っていたのだが、違法ダウンロードに関する「盗品」理論は始めて見かけたので、少しだけ突っ込んでおきたいと思う。(Imediaの記事などを見ても、世界的に見ても同じような主張が権利者側からなされているようである。)
 すなわち、この「盗品」理論は、著作権法であれ、特許法であれ、どの知的財産権法でも、知的財産侵害品の単純購入や単純所持を禁じているものはないこと、知的財産権はあくまで社会的な便宜のために創設された人工的な権利であることを完全に忘れている。完全な情報コントロール権をその創作者に与えた場合の弊害は計り知れない。有体物の窃盗と、無体物である知的財産権の侵害を混同するのは、常に論理飛躍をもたらす危険なアナロジーであると、「海賊版、模倣品≠盗品」であると、常に肝に銘じておかなくてはならない。

 また、著作権裁判におけるインターネットサービスプロバイダーからのP2Pユーザー個人情報提出は認められないとする判決が、EU裁判所で出されたというITmediaの記事も、念のため紹介しておく。著作権に気を取られすぎて、他の大事なことを忘れてやしないかというのは、私が常々抱いている疑問であるが、著作権強権国家が居並ぶ欧州でも、このような判決が出されているのは心強い。

 次回は、これまた最近話題の著作権登録制度について自分なりの考えを書いてみたいと考えている。

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2008年1月29日 (火)

第54回:警察庁提出パブコメ

 第50回で書いたこととかなり重なってしまっているが、下記のようなパブコメを警察庁に出したところである。このようなものでも、誰かの参考になるかも知れないと思うので、ここに載せておきたいと思う。

     記

1.氏名:兎園
2.連絡先:

3.意見:
(概要)
 私は、出会い系サイトの問題を放置するべきだなどということを言いたいがために、このパブコメを書いている訳ではないことを最初に明言しておく。
 しかし、この警察庁の報告書は、出会い系サイトに関する問題の現状をねじ曲げ、全く問題解決の役に立たないどころか、国民の血税を無駄に浪費するだけの有害無益な方策を書きならべたものでしかなく、このような妄想ペーパーに基づいて法改正を行うことなど到底許されない。
 法律を最も厳格に解釈・運用するべき行政機関である警察によって、このような報告書がまとめられたことについて、私は憤りを禁じ得ない。このようなデタラメな報告書をまとめたことについて、私は一国民として、警察庁に、以下の警察法の第2条を今一度読み直し猛省することを促す。このような有害無益な報告書の方策を全て捨てた上で、警察には真の問題解決へとつながる地道な活動を、今後は進めてもらいたい。

「第2条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。」

(1)p.11「提言① 都道府県公安委員会に対する届出制の採用」に反対する

(理由)
 インターネットにおける事業者の把握が困難なことと、届出制は全く結びつかない。事業者の把握が困難な理由としてあげられているのは、①警察が情報開示を求めても事業者が個人情報保護を理由に開示に応じない、②海外サーバを経由された場合、海外サーバ事業者等の協力を求めなくてはならないが、これは困難、③事業者が仲介業者を介して電気通信事業者と契約している場合、電気通信事業者の契約相手が出会い系サイト事業者と一致しない、という3点であるが、届出制を採用したところで、このような海外のサーバや仲介業者を使っているような悪質業者が完全に特定困難だとすれば、届出に対する違反の罰則すら適用不可能なはずであり、このような規制が全く悪質業者対策にならないことは明白であり、この提言における理由付けの論理は完全に破綻している

 また、例えば児童の不正誘引の書き込みはそれだけでも犯罪なのであるから、警察がきちんと手続きを踏み、令状なりを取って開示を求めれば個人情報であったとしても開示されないということはないはずである。そもそも、このような正式な手続きを抜きにして、警察が事業者に情報開示を迫っているとしたら、その方が大問題である。

 さらに、報告書には、今の出会い系サイト規制法(「インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律」)における「インターネット異性紹介事業」の定義は、犯罪の構成要件ともされるくらい厳格な要件であり、十分に明確であるとも書かれているが、その第2条の定義は、

「異性交際(面識のない異性との交際をいう。以下同じ。)を希望する者(以下「異性交際希望者」という。)の求めに応じ、その異性交際に関する情報をインターネットを利用して公衆が閲覧することができる状態に置いてこれに伝達し、かつ、当該情報の伝達を受けた異性交際希望者が電子メールその他の電気通信(電気通信事業法 (昭和五十九年法律第八十六号)第二条第一号 に規定する電気通信をいう。以下同じ。)を利用して当該情報に係る異性交際希望者と相互に連絡することができるようにする役務を提供する事業」

というに過ぎない。これでは、普通の掲示板・SNS・ブログやメールサービスだろうと何だろうと、面識のない異性交際のためのやりとりを通信で可能とするような事業は全て含まれ得るのであって、このような定義に基づいて届出制を課すなどということはあり得ない。さらに、第6条の不正誘引行為について刑罰が科されているにしても、児童を不正に誘引することをもって刑罰を科しているのであって、このことが上の定義が明確である理由とならないのは当たり前の話である。このような稚拙な論理で国民を騙そうとする警察庁は猛省してしかるべきである。
 さらに言っておくと、面識のない異性交際のための通信はどのようなコミュニケーション手段を用いても可能であり、そもそも、出会い系サイト事業を定義可能であると思っていること自体間違っている。

 また、児童保護のために表現の自由を制限してサイトへの書き込みを削除して良い場合がある、すなわち、届出制によって付与された不透明な行政指導権限による検閲が正当化できるということではないということも指摘しておく。このような論理の飛躍は決して許されない。本来、最も厳格に法律を解釈・運用するべき警察庁から、真摯な憲法論に到底耐え得ないこのようなペーパーが出されたことは、それだけで許しがたいことである。この点については、芦部信喜先生の「憲法」のみならず、同先生の「憲法学」、佐藤幸治先生の「憲法」、伊藤正巳先生の「憲法」、浦部法穂先生の「憲法学教室」、野中俊彦先生他の「憲法」など著名な教科書の表現の自由と検閲に関する項目を良く読み直してから、出直して来てもらいたい。

(2)p.14「提言② 出会い系サイト事業者には、児童に関係する書き込みを知ったとき、その書き込みの削除を義務付けること」について反対する

(理由)
 (1)で述べたように、出会い系サイト事業の定義は実質不可能であり、その範囲はどうしても恣意的にならざるを得ない。このような定義に基づいて削除義務を課すことはそもそも適切でない

 また、サイト事業者が、法に抵触する投稿に対して発する警告メッセージには何の権限もないことから、違反者に対し効果がない場合もあるとの指摘を取り上げて、これが規制の根拠ともなり得るような印象操作を行っているが、この記載も全く適切でない。サイト事業者が、ユーザーが法行為を繰り返す場合は、IPアドレス等個人情報の開示も含めて警察へ通報することをきちんと警告メッセージに含ませれば、通常のユーザーであれば違法行為をやめるであろう。これは、単にサイト事業者が警告の書き方について弁護士なりとの相談が必要であることを示しているに過ぎない。警告を無視してさらに違法行為を繰り返すようであれば、問答無用で警察に通報すれば良いだけのことである。このことは全く規制の根拠たり得ない。

 無意味な規制の導入は、かえって悪質業者とユーザーのモラルハザードを引き起こすだけである。「①児童が異性を誘う書き込みと、②大人が異性の児童を誘う書き込み」は今でも違法なのであって、普通の事業者であれば、自らのサイトにおいてこのような書き込みを事業者の判断で削除可能とする規約を立てているであろうし、実際、大手出会い系サイト事業者のほとんどが自主規制を行っていることが報告書でも書かれていることを考えると、この点は、引き続き自主規制に委ねるべき点であると私は考える。

 さらに指摘しておくと、サイト事業者が自主的に行うならまだしも、何の権限も有しないインターネットホットラインセンターなどの民間団体からの強圧的な指摘により、書き込みの削除が行われることなどあってはならないということを報告書では明記するべきである。このようなセンターは単なる一民間団体で、しかもこの団体に直接害が及んでいる訳でもないため、削除を要請できる訳がない。削除要請や取り締まりは、法律の制限を受ける権限に基づいてきちんと警察が行うべきことであり、このような半官検閲センターに無意味に税金を投入することは即刻止めるべきである。

(3)p.17「提言③ 出会い系サイトに関係した児童被害の防止活動を行う民間団体に対し、公安委員会が情報提供等の支援を行うこと」について反対する。

(理由)
 何の取り締まり権限も削除要請権限もない単なる民間団体に、役所(公安委員会)へ届け出られた情報をそのまま垂れ流して、それで児童被害が防止できると言うなど、気が狂っているとしか思われない。そもそも、役所が業務上知り得た情報を、そのまま民間団体に流すことに法律とモラルの点の極めて大きな問題がある上、有害情報を収集して、直接削除要請などを行う民間団体があるということ自体おかしいと考えるべきである。
 犯罪の取り締まりについて警察に協力することは市民の義務であろうし、違法な行為を見つけて警察に通報する民間団体は別にあっても良いが、単なる一民間団体に有害情報に対して通報が行われ、しかも団体に直接害が及んでいないにも関わらず直接削除要請などを行うことなどどう考えてもおかしいという常識を警察庁には持ってもらいたい。そもそもインターネットホットラインセンターの透明性にも問題があるが、Wikipediaによると、インターネットホットラインセンターは警察庁からの受託金収入で運営されているとのことであり、無駄な天下り団体として税金の浪費になっている可能性が高い。このような無駄な半官検閲センターに国民の血税を流すことは到底許されないのであって、本来その分できちんとした取り締まりと削除要請ができる人員を警察に確保するべきであると私は考える。
 まず私が求めるのは、このような半官検閲センターの即刻廃止である。

(4)p.17「提言④ 年齢の自主申告方式を一部廃止し、年齢確認方法を一層強化すること」に反対する。

(理由)
 (1)で述べたように、出会い系サイト事業の定義は実質不可能であり、その範囲はどうしても恣意的にならざるを得ない。このような定義に基づいて年齢確認の義務を課すことはそもそも適切でない

(5)p.18「提言⑤ 児童の利用を防止するため、出会い系サイト事業者の責務を法に明記すること」に反対する。

(理由)
 (1)で述べたように、出会い系サイト事業の定義は実質不可能であり、その範囲はどうしても恣意的にならざるを得ない。このような定義に基づいてユーザー排除の義務を課すことはそもそも適切でない

(6)p.19「提言⑥ フィルタリングの普及を促進するため、法に保護者及び携帯電話事業者の責務(努力義務)を規定すること」に反対する。

(理由)
 未成年者の携帯電話に対する総務大臣のフィルタリング導入要請について、全く触れられていないこと自体不可解であるが、この総務省の要請についてもその有効性に疑問が呈されている中、さらに加重規制を課そうとすることの意味は全く理解できない。

 また、これは内閣府に言うべきことなのかも知れないが、この1月28日に公表された「インターネット上の安全確保に関する世論調査」の結果について、「18歳未満の児童がパソコンや携帯電話などでインターネットを利用する場合、フィルタリングが必要であると思いますか」との質問に対し、3006人のうち62.9%が「必要であると思う」と答えたそうだが、3006人のうちフィルタリングについて「全く知らない」者がが62.2%もいるにも関わらず、その全員に対してフィルタリングを必要とするか否かを聞くなど、この調査はアンケートのやり方のアの字も知らないデタラメぶりであり、このようなデータに基づいて世論が求めているなどということは悪辣な欺瞞以外の何物でもない。
 また、未成年にフィルタリングが必要か否かという質問だけを立てることもおかしい。ほとんどの未成年が親の保護監督下にあることを思えば、普通に考えれば、必要と思えばほとんどの場合未成年のフィルタリングを導入することは可能なはずである。フィルタリングの存在を知り、かつ、フィルタリングの導入が必要だと思っていて、なお未成年にフィルタリングをかけられないとする親に対して、その理由を聞くか、あるいはフィルタリングをかけている親に対して、そのフィルタリングの問題を聞くかしなければ、フィルタリングの本当の問題点は見えてこないはずである。その他いちいち指摘しないが、このように有害な印象操作がそこら中で行われ、全く信用できない調査を政策判断の材料とすることなどあってはならない。
(インターネットホットラインセンターについても全く同断であり、知らない者が9割近くにも上るにも関わらず、その全員に対してその有効性について聞き、「インターネットホットラインセンターは安全を守るために有効と思う」と7割近くの人間に答えさせるなど、悪質な印象操作以外の何物でもない。このような調査から分かるのは、役人の情報リテラシーの低さのみであり、まず全省庁の全役人に対して明快な情報リテラシー教育を早急に行うべきであるとしか言いようがない。情報に対する役人の認識がこの程度では、政府からの情報漏洩が止まらないのも無理はない。)

 そもそも、国民の自由な選択を潰してまで、フィルタリングの原則導入をしなければならない理由は全く不明であり、このような義務化は現時点では不当規制であると言わざるを得ない。

(7)p.20「提言⑦ 本法に違反した者は、行政処分(事業の停止命令を含む)の対象にすること」、「事業者の欠格事由を設け、該当者は事業廃止命令の対象とすること」に反対する。

(理由)
 (1)で述べたように、出会い系サイト事業の定義は実質不可能であり、その範囲はどうしても恣意的にならざるを得ない。このような定義に基づいて事業者に対する行政処分あるいは欠格事由を定めることはそもそも適切でない
 また、罰則を警察庁で検討するとしているが、取り締まる側の人間が罰則を検討するのはデタラメも良いところである。警察庁には三権分立の意味と、警察法の主旨を今一度自らに問い直して、その行いを改めてもらいたい。

(8)報告書全体について
 この報告書において売春防止法に対する言及が全くないことも不可解である。その第5条にははっきりと、

「(勧誘等)
第5条  売春をする目的で、次の各号の一に該当する行為をした者は、六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
一  公衆の目にふれるような方法で、人を売春の相手方となるように勧誘すること。
二  売春の相手方となるように勧誘するため、道路その他公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
三  公衆の目にふれるような方法で客待ちをし、又は広告その他これに類似する方法により人を売春の相手方となるように誘引すること。 」

と書かれているのであって、年齢にかかわらず、それがインターネットであるかどうかにもかかわらず、全て公衆の目にふれるような方法で売春を誘う行為は既に刑罰の対象となっているのである。この報告書における、児童売春はダメだが、それ以外の売春は良いとするかの如き印象操作についても、私は明確な釈明を求める。

 繰り返しになるが、サイトへの書き込みが売春誘引行為なり、児童に対する不正誘引行為なりであれば、その時点で既に犯罪なのであり、その書き込みがされたという事実をもって警察による削除要請や、書き込んだ者に対する取り締まりがなされるべき話であって、それ以上の話ではない。売春行為なり、児童に対する不正な誘引行為が大手を振って許されている国もないであろうから、海外サーバを経由している場合であっても、現地の警察ときちんと協力すれば取り締まりが可能なはずである。

 また、第3回研究会提出資料の「出会い系サイトに関する諸外国法制調査結果」を見ても、主要各国で、出会い系サイトの届出制を取っている国などないということの意味を警察庁は明確に認識するべきである。EUもコントロールよりリテラシー向上が重要と考えていることはネット記事(http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/12/25/17993.html)にもなっており、EU自らもプレスリリース(http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/07/1970&format=HTML&aged=0&language=EN&guiLanguage=en)を行っていることをよく考えてもらいたい。このような国際潮流を、官庁の方針に都合が悪いということのみをもって、握り潰すことがあってはならない

 出会い系サイトに対する誘引の書き込みも、それ自体では、単なる情報に過ぎないのであり、人と人とのコミュニケーションを止めることは最後できないことを思えば、本当に重要なことは、インターネットに散らばる膨大な情報を自ら取捨選択する情報リテラシー能力であって、この能力を高める本当の国民教育抜きにしては、いかなる規制も意味をなさないと私は確信する。

 結局、届出制の導入の提言は、本当の問題解決につながる地道な取り組みをないがしろにして、このような制度によって与えられる許認可権限によって、インターネットホットラインセンターのような存在意義自体怪しい天下り団体を通じた不透明な行政指導を正当化し、出会い系サイト業者との癒着と天下り利権の強化を図ろうとする警察官僚の悪辣なたくらみを露骨に反映したものとしか思われない。このような社会全体にとって全く有害無益な規制の導入は、一国民として到底承伏することはできないものである。

 最後に、出会い系サイトの問題を放置するべきだなどということを言いたいがために、このパブコメを書いている訳ではないことを示すために、このような有害無益な報告書の提言の替わりに、以下のような地道な施策を私はここで提案する。

現行の出会い系サイト規制法の運用においても、これが過度の規制とならないように気をつけること。そもそも出会い系サイトの定義が本質的には不可能であることを考え、現行法の事業規制すら、過剰規制となっているのではないかという観点から再点検を行うこと。
有害無益な半官検閲センターであるインターネットホットラインセンターを廃止すること
ネット由来の犯罪に対する警察への通報窓口(ネット由来の犯罪なのであるから、警察でメールアドレスを一つ用意するだけでも良い。民間団体に過ぎないインターネットホットラインセンターへの通報など論外である。)を一元化し、この窓口を周知徹底すること
海外サーバーを経由して行われる事案に対応するため、海外現地警察との協力体制を構築すること
⑤警察官の弾力配置により、ネット由来の犯罪に対応する警察官を増員し、この警察官に対して技術と法律と情報リテラシーに関する教育を徹底すること
法律によって明確に制限を受ける警察の権限による、児童の不正誘引と売春誘引の書き込みに対する取り締まりを強化すること
未成年のフィルタリング原則導入に関しては、国民の選択肢を潰してまで導入しなければならないとする理由をまず明確にすること。(これを明確にできないようであれば、導入はしないこと。)
⑧(これは警察庁だけに言うことではないだろうが)ネットにおける情報を自ら取捨選択する能力を身につけるための、国民的な情報リテラシー教育を充実させること

 念のため、「頂いたコメントを重く受け止めて推進する」などという官僚の遁辞を私は求めているのではないこと、私はこの報告書の方向性に完全に反対しているのだということをここに書いておく。

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2008年1月25日 (金)

第53回:特許法・意匠法・商標法・不正競争防止法等々に関する動き

 著作権法以外の知的財産権法は、制度ユーザーである実務家にとってはそれなりに大きな問題を抱えているのだろうが、一般ユーザーに直接の影響はあまりなく、何と言っても著作権問題があまりに大きいため、取り上げる余裕がさっぱりなかった。しかし、折角、ブログ名に知財政策と掲げているのだから、他の知的財産権法に関する動きも一通り紹介しておきたいと思う。著作権法と同じく、これらの法律でも、法律に対応する専門の役所の審議会があり、やはりそこで何故か法改正が検討されている。

 まず、特許法については、経済産業省の産業構造審議会・知的財産政策部会・特許制度小委員会で検討がされている。HPで見られる最新の回(第24回:平成19年12月19日)の「特許政策を巡る最近の動向について」という資料が最近の動向を見る上で分かりやすいのではないかと思う。特許権は、出願・審査・登録をしない限り権利が発生せず(出願料・審査料・登録料が必要)、基本的に権利の及ぶ範囲も、業として特許を実施する場合に限られるので、著作権と違って、一般ユーザーに直接響く話が検討されるということはほとんどない。しかし、このような登録制度と、登録制度を前提とした強力な過失推定規定の存在のために、制度の違いによる加重コストの発生と、制度による先進国と発展途上国との間の格差の拡大が問題になっていることだけは知っておいても損はないかも知れない。著作権法ほどではないが、これもまた終わりのない大問題である。

 意匠法については、同じく、経産省の産業構造審議会・知的財産政策部会・意匠制度小委員会で検討されている。HPで見られる最新の回(第11回:平成20年1月22日)の資料から、「意匠政策を巡る最近の動向について」にリンクを張っておく。商標法に対応するのは、産業構造審議会・知的財産政策部会・商標制度小委員会で、これも「商標政策を巡る最近の動向について」(第18回:平成19年12月18日の資料)へリンクを張っておく。

 意匠や商標も、登録制度を取っている以上、特許と同じ問題を抱えるはずなのだが、特許ほどの問題になっていないことがこれらの概要資料だけを見ても分かるのではないかと思う。特許の場合だと、医薬特許の問題から影響が生命にまで及ぶが、意匠・商標が保護するのは基本的に有体物の外形・模様(デザイン、トレードマーク)であるため生命にまで及ぶ話ではないこと、外形・模様である以上そのセンスにはどうしても国民性が出てくること、よほどの大企業でない限り世界商標など必要ないことなどから、意匠権や商標権はドメスティックな色彩がかなり強くなっているためだろう。ただし、特許とは違い、意匠・商標は、デザインやマークそのもの情報化により、著作権と似通った問題を抱えて行くことになるだろうとも思われる。

 また、各法の通常実施権登録制度を見直すこともほぼ決まっているようであり、このようなマニアックな話にまで興味があるなら、「「特許権等の活用を促進するための通常実施権等の登録制度の見直しについて」の概要」、「意匠法上の通常実施権等の登録制度の見直しについて(案)」、「商標法上の通常使用権等の登録制度の見直しについて(案)」などを見てみるのも面白いかも知れない。その他料金体系などの見直しなどもされるようであるが、一般ユーザーにはあまり関係ないので、ここではそんな話もあるという紹介だけにしておく。

 また、不正競争防止法に近いところでは、同じく経産省で検討されている技術流出防止問題があり、この前ネット記事(日経ネットの記事読売新聞の記事asahi.comの記事)でも産業スパイ法を新法として作る検討を経産省で始めると報道されていた。新法は「情報の窃盗罪」を規定し、社内のネットワーク内にある秘密情報に権限のない社員が接続し、CD―ROMなどに情報をコピーしたり、電子メールで私用パソコンに送ったりすれば、第三者への情報流出を確認できなくても、それだけで違反行為とみなす方針らしいが、ネットワークに不正にアクセスした場合は今でも不正アクセス防止法(正式名称:不正アクセス行為の禁止等に関する法律)違反で取り締まりが可能であることを、また、不正競争防止法でも、不正の競争の目的で、不正アクセスなどにより営業秘密記録媒体等を取得・複製した者は、それだけで取り締まりが可能となっていることを経産省は理解しているのだろうか。情報漏洩を気にするばかりに、通常の仕事のメールのやりとりまで規制されるような法律にされてもかなわない。

(窃盗罪が通常ではCD-ROMの盤にしかかからないのもそれ自体では当たり前の話である。情報そのものには排他性がないので、情報の価値は常に相対的にしか決まらないということを忘れてはならない。CD-ROMにどんなに秘密情報が書き込まれていようと、それがこの情報を利用可能な競業他社に渡らない限り、どこまで行っても単なるCD-ROMでしかないし、情報漏洩による損害は発生していない。無体物と有体物とのアナロジーは必ず危険な論理飛躍をもたらすので、常に注意が必要である。)

 産業スパイ法もまた、最近の役所にありがちな立法のための立法でないかというのが私の本質的な疑いだが、まだ海のものとも山のものともつかないので、これ以上言っても詮ない話である。(それにしても、この問題を検討していたはずの、産業構造審議会・知的財産政策部会・技術情報の保護等の在り方に関する小委員会(第1回議事要旨第1回資料第2回議事要旨第2回資料第3回議事要旨)を見ても、どこから新法という話が出てきたのかよく分からないのはどうにかならないものか。)
 なお、この問題の中で、秘密特許制度の検討も一緒にされるようなので、特許マニアは要注目である。

 種苗法については、農水省の「植物新品種の保護の強化及び活用の促進に関する検討会」で過去検討されていたようであるが、今は動いていないようである。半導体集積回路法(正式名称:半導体集積回路の回路配置に関する法律)についても特に表立った動きは見られない。

 著作権法と上にあげたもので知財法と呼ばれるものは大体網羅したと思うが、あとは知財政策全体について、無論、知財本部での検討がある。HPからは、今一番の大問題である著作権問題に関するものとして、コンテンツ・日本ブランド専門調査会・コンテンツ企画ワーキンググループの最新の回(第3回:12月4日)の資料から「優れたコンテンツの創造と海外展開について」へリンクを張っておく。今日の日経朝刊にも載っていたが、2月1日に開催されるこの企画ワーキングで「デジタル時代におけるコンテンツ振興のための総合的な方策(案)」なる報告書がとりまとめられるようである。募集がかかり次第知財本部にもパブコメを出したいと思っているが、国民不在のまま著作権法改正を進めようとする文化庁に知財本部がさらに荷担しないことを切に願う。

 さらには、特許庁で、「イノベーションと知財政策に関する研究会」なるものが開催され、その検討課題に対する意見募集がかけられている。これもとりあえず問題となりそうなことが漠然と並べてあるだけで、いまいち何をしたいのだか良く分からないのだが、船頭を増やしてもロクなことはない、特許庁も他省庁と一緒になって山を登ることがないように切に願っている。

 そもそも、知財関係だけで何でこんなに沢山有識者会議を作らなくてはならないのかさっぱり分からないが、文句を書き出すと切りがなくなるので、日本の役所についてはこれくらいにして、他の知財関係のニュースを拾って行く。

 日本一の知財法の権威である、中山信弘先生最終講義の記事がITproに載っているので、念のため、ここにも記事へのリンクを張っておきたいと思う。中山先生が退官されるのは本当に残念でならないが、是非、跡を継ぐであろう法学者の先生方には、この講義にもあるように、体系的な法学研究をしてもらいたいと思う。最近の日本アカデミズムに中山先生ほどの大局観をもった法学者が見つからないことも、今の政策の迷走の一因となっているに違いないのだから。

 また、いくつか著作権に関する国際動向についてのニュースも紹介しておく。まず、フランスでは、携帯電話に対する補償金賦課の検討において、機器メーカー代表へのヒアリングが行われたようである(フランス語のネット記事参照)。しかし、記事によると、当然のことながら、メーカーは、そもそも携帯電話は音楽を聞くために使われるものではなく、携帯電話がどれくらい補償が必要な音楽データの蓄積に使われているのかをまず調査すべきであると課金に反対し、著作権団体は、iPodが課金されているのに、iPhoneが課金されないのはおかしいと問答無用の課金を主張しているようである。日本でもiPodへの課金を認めた途端に、権利者団体が全く同じ主張で携帯電話(日本でも同じくiPhoneが発売された時点で絶対に問題になるだろう)等の汎用機器への対象拡大を求めてくることは目に見えている。混乱に次ぐ混乱をもたらすために法律はあるのではない。フランスの状況は、現時点でiPodへの課金を日本で絶対に認めてはならない理由を明確に示してくれている。

 フランスのネット記事によると、フランスでは、裁判で、IPアドレスからユーザーを特定する情報は個人情報であり、インターネットサービスプロバイダから著作権企業にこの情報を開示をさせるべきではないとする判決が出されたようであり、スイスでは、IPアドレスそのものが個人情報であり、ユーザーが知らない内に一民間企業がこれを集めることからして通信の秘密に反し違法であるため、この収集行為を止めよとの勧告(フランス語)が、政府からメディア企業に出されたようである。(このIPアドレスは個人情報かという話も、個人的に考えをまとめてみたいと思っているところである。)

 「P2Pとかその辺の話」で既に紹介されているが、さらに、EU委員会で、レコードに関する著作権保護期間延長とインターネットサービスプロバイダーへの著作権フィルタリングの強制の提案が否決されたようであること(英語の記事1記事2)を、ここでも念のため紹介しておく。

 文化庁はこのような動きを紹介しないかも知れないが、あまりにもえげつない著作権団体・著作権企業のやり口に対してヨーロッパでも逆風が吹き始めていることは、注目に値する。だが、国際レコード・ビデオ製作者連盟(IFPI)のデジタル音楽レポート2008年(IFPIの記事レポート本体)で、フランスの著作権検閲の取り組み(第29回第30回参照)を評価し、さらにインターネットにおける著作権保護強化を求めていることを見ても、この程度の逆風で著作権業界が保護強化をあきらめる訳がないことは明白である。著作権戦争に終わりはない。

 次回は、著作権問題と文化政策についての個人的な考えをまた書いてみたいと思っている。

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2008年1月24日 (木)

第52回:コピーフリー文化の重要性

 今日、文化庁で、今期最後の私的録音録画小委員会が開催され、ダウンロード違法化問題も含めて、私的録音録画関係のとりまとめが先送りになったとネット記事(internet watchの記事ITmediaの記事)でも報道されている。

 結論が先送りになり、またパブコメなりを出す機会があると予想されるのは良いことだが、次のとりまとめに向け、文化庁と権利者団体が、こぞって「複製=対価」の世界のみが文化の発展に寄与するという間違い以外の何物でもない観念による国民への洗脳を強化する恐れが強い以上、それ以外の世界も今まで常に大きな存在であったことを、そして、それ以外の世界の方こそ今広がりつつある世界であることを、あらゆるところで示す必要がある。「複製=対価」の世界も勿論あっても良いだろうが、このルールが「複製=フリー」の世界にまで強制され、全てが「複製=対価」で塗りつぶされることは文化にとって極めて有害であることを示し続けることは、「複製=フリー」の世界に最も近いところにいるネットユーザーの責務だと私は思っている。

 英語でFreeというと自由の意味も、無償の意味もあるのに比べ、フランス語では自由はLiberte、無償はGratuit、ドイツ語ではFreiheitとCostenlosと違う語である。英語でフリーというとすぐごっちゃになるが、自由と無償は違う概念であり、自由なら無償かというとそんなことはないし、無償なら自由かというとそんなこともない。(言葉の違いが法制に影響を与えているのかどうかはよく分からないが、自由あるいは無償ということを言い表すのにはフリーという語感は便利ではある。)

 そして、情報の利用と自由と無償という観点から分類すると、「情報の利用=不自由かつ有償」、「情報の利用=不自由だが無償」、「情報の利用=自由だが有償」、「情報の利用=自由かつ無償」の4パターンがあることは誰にでも分かることであるし、この全てのパターンが現実にあり得ることも分かるだろう。「情報の利用=複製」と考えて、「複製=不自由かつ有償」こそ文化の発展にとってベストソリューションとなる基本概念であると、文化庁と権利者団体が今必死で洗脳工作を展開している訳だが、私は全くこれに賛同しないどころか、「情報の利用=自由かつ無償」こそ文化と産業の発展にとって常に必要不可欠の基本概念だったと、そして、これからもあり続けると私は考えているのである。(このような「自由」に基づく知的財産の分類をしている文章はあまり見かけないが、知財権に限らず、権利すなわち法規制で、権利は全て自由から発生する諸問題を回避するための調整手段なのであり、その逆ではない。そう単純な話でもないが、自由・不自由はDRMの有無と、有償・無償は補償金の有無と読みかえてもらうと分かりやすいかも知れない。)

 今回は文化の話をしたいので、著作権に的を絞るが、そもそも、情報の伝達手段が未発達で、著作権という思想がないころに、コピーが自由かつ無償であることは自明のことであって、その時代に情報の伝達のための複製には許諾が必要だとして金を取ろうとしたら、気違いと思われて終わったことだろう。情報の伝達のため手段が限られていた時代には、その情報が取り締まられるべき思想でない限り、情報伝達のための複製は推奨しこそされ、規制することなど考えられもしなかったろう。ギリシャにせよ、中国にせよ、古代文化として残されているものは全て、当時最も多く読まれたものが最も多くコピーされ、おかげで結果として残っているのである。大体、一部の者が莫大な資産と余暇を持て余している状況では、文化の保護は単純に人の囲い込みによってなされていたのであり、民衆は民衆で自分たちで文化をほぼ無償で伝承していたのであって、そこに「情報の伝達のための複製=対価」の概念など入り込む余地は無かったろう。

 では、著作権思想の発生と拡大の要因は何だったかというと、結局、情報の伝達のための複製のコストが技術の発展により下がったということこそ決定的な要因だったと考えられる。

 印刷技術の発明によって、出版にかかるコストが劇的に下がったため、多くの人々に本を届けることが可能となり、それが商売となった。しかし、コストが下がったと言っても、印刷機と本の流通のためにかかる投資コストはかなりのものであり、あらゆる者に技術的な恩恵を、文化的な創造物を享受する機会を与えるためには、この投資コストを出版業者に回収させることが必要だったからこそ、著作権は発明されたと考えられるのである。そして、この投資コストの回収こそが最大の理由であったのにもかかわらず、この権利の発明にあたっては、創作者へのコスト配分によるインセンティブ論が巧妙に使われたことだろう。

 その後、新たな情報伝達技術が発明される度に、同じ創作者保護の理屈で著作権は拡大されて来た。さらには、20世紀になってレコードや放送といった情報流通(伝達)手段が発明され、これらの流通業が極めて強い政治力を持つに至った結果、これらの業界は、それまで使われてきた著作権の創作者保護の建前すらねじ曲げ、著作隣接権という形で自分たち流通業の投資コストの回収のための権利を、著作権法に無理矢理ねじ込んだ

 しかし、どのような創作者であれ、最初から独創的な創作をして来た者などおらず、最初は必ず模倣から始まり、個人レベルであれ社会レベルであれ、この模倣が自由かつ無償で許される世界の存在こそが常に、次世代の文化の作り手・担い手を育ててきたのであり、著作権思想の拡大によっても、この世界は消極的にもせよ常に守られて来ていたのである。音楽家にせよ、画家にせよ、作家にせよ、プロであれ、アマチュアであれ、子供あるいは青年時代に、他人の音楽なり絵なり文章なりを個人的に複製・模写・模倣・加工して、自分なりの表現手法の模索をしたことがない人間がいるだろうか。これが法律的に悪だと言われたら、一体どうやって文化を学び、発展させれば良いというのか。今の私的複製の議論など、著作権神授説に毒されすぎ、最も基本的なことが忘れられているのである。

 これらの出版やレコードと言った発明は全て、情報の伝達のための複製のコストは下げたせよ、必ず業としてかなりの投資を要求するものであったが、通信技術の発展、特にインターネットの登場が、その状況をさらに劇的に変え、情報伝達のために必要な全ての複製のコストをあらゆるユーザーにとって気にならないほど小さなものに下げた。このような場で、複製に基づくコストの回収と配分という従来のスキームが通用しないのは当たり前であり、この状況の変化が、従来の有体複製物の流通コストに頼ってきた情報流通業の有様に変化を与えるのも当然の話である

 要するに、流通コストへの投資の谷を越えられそうな創作者のみに流通事業者が投資をして著作物を流通させることが正しい文化のあり方だった時代は終わり、誰でも文化の発信者になり得る夢の状況が既にほぼ現出しているのである。投資の谷を越える必要がない以上、何ら金銭的なインセンティブをつけなくとも、自らの創作物を公表する人間は必ずいる。人類全体の文化に貢献するということのみを目的として人が創作することもあるのを否定してはならない。インターネットという技術の開発によって、「情報の利用=自由かつ無償」の世界に新たな地平が開かれたのだ。

 ソフトウェア業界では、フリーソフト・オープンソースソフトのやりとりがインターネット上で極めて盛んに行われている。確かにこのフリーソフトは商用ソフトウェアと競合し、たまに小競り合いも見かけるが、フリーソフトやオープンソースソフトによって、ソフトウェア業界が壊滅的なダメージを受けるどころか、かえって共存繁栄の道を模索していると考えた方が妥当である。

 ゲーム、漫画、アニメに代表されるオタク文化業界も、「情報の利用=自由かつ無償」の世界である同人文化がこれを下支えしていることは公然の秘密であって、これらも、たまに裁判などになったりはするものの、基本的には暗黙の内に共存繁栄を目指していると考えた方が良い。

 これらの業界はよく知られている顕著な例というだけの話であって、他のジャンルの文化であっても変わりはない。文化の発展のためには、潜在的な創造者である利用者に、著作物の無償かつ自由の利用を認めることによって生じる揺らぎが絶対に必要なのであって、これをつぶすことは未来の文化をつぶすことに他ならない。創造は常に模倣からしか生まれないのであり、フリーライドを完全に悪として、あらゆる複製を不自由あるいは有償としてしまうことは、文化政策として絶対にやってはならないことなのである。

 ただし、「情報の利用=自由かつ無償」の世界が必ず必要であるにせよ、これがどの程度必要であるか、さらに、「情報の利用=不自由かつ有償」、「情報の利用=不自由だが無償」、「情報の利用=自由だが有償」の世界も含め、これらの間の線をどこに引くかは非常に難しい問題であり、リアルとバーチャルを通しての共通解は恐らくない上、文化のジャンルによっても最適解は恐らく異なっている。本当の現実解の導出には相当長い時間がかかるだろうと、本当の現実解の導出の前に中途半端な妥協をすることは必ず良くない結果をもたらすだろうというのが私の考えである。

(1月24日夜の追記:コメントを頂いたが、確かにクリエイティブ・コモンズなどの取り組みについて言及し損ねていた。このような取り組みについては、また別途書きたいと思う。なお、細かなライセンス条件が必要なほどのブログとも思っていないので書いていないだけなのだが、念のためにここで書いておくと、このブログはほぼパブリックドメインと思って書いているので、ここで私が書いた情報の利用は全て自由かつ無償と考えてもらって構わない。ただし、引用の部分については、引用元の著作権がある場合があるので気をつけて頂きたいと思う。)

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2008年1月21日 (月)

第51回:インターネットの匿名性に関する誤解

 ネット規制の問題で大体セットになって出てくるのが、ネットの匿名性の話である。

 例えば、ネットを実名制にするべきだという話も良く見かける。しかし、第37回などでも書いたように、プロバイダー責任制限法や警察や裁判所の令状に基づいて今でも情報開示がなされることを考えると、ネットにおける匿名性は完全無欠なものでは全くない。それどころか、技術的なことも考えると、ネットにおける匿名性などほとんど確保されていないに等しいと私は思っているのだが、それにも関わらず、このような議論が是々非々で常に続いていることが私には不思議でならない。

 すなわち、ネットでの匿名性は、インターネットに関する技術と法律について勘違いをしているユーザーが極めて多いということによって擬似的に担保されているに過ぎないと思われるのだが、単にネットで自分と異なる意見を匿名で書き込まれるのが気にくわないという個人的な怨恨(無論、これがその人の財産なり身体の安全なりを具体的に脅かすようなことが書き込まれたという話であれば、今でも民事・刑事による対応が可能なのだと念のため繰り返しておく。この財産の中に知的財産権が入ることにも異論はないが、「財産権≠知的財産権≠著作権≠複製権」であることも繰り返しておこう。)を超えて、技術的なことと法律的なことについてきちんと調べ、考えた上で、ネットの実名制を主張している規制賛成派が一体どれくらいいるだろうか。

 まず、技術的なことから書いて行くと、インターネット上の情報は、必ずIPパケットに分割して送られるが、このパケットには必ず、送信元のサーバーのIPアドレスと送信先のサーバーのIPアドレスが入っている。インターネットの通信は、まず送信元のサーバーからパケットを送られた中継サーバールータが、その送信先のIPアドレスを見て、次にどのサーバーにパケットを送るのが適切かを判断して、次の中継サーバールータに送るということを、最終的に送信先のサーバーに届くまで繰り返すことで実現されているに過ぎない。携帯電話では最初のサーバーまでの通信が無線でなされるというだけのことで、PCからであろうと、携帯電話からであろうとインターネットを使う限り、この仕組みに違いはない。(あまり例えは良くないかも知れないが、これは、郵便局が、ポスト→集配所→中央集配所→各地の集配所→家庭の郵便受けと、宛先の住所を見て順番に手紙を送っていることとそれほど違わない。)

 そして、通常、送信元のサーバー、中継サーバー、送信先のサーバーの全てで通信記録(ログ)が取られていると考えられる(何かトラブルが発生したとき、このログがないと技術者は対応できないため、ほとんどのサーバーで取られているものと思う。なお、このログの保存義務の話は別論としてあるので、またどこかで取り上げたいと思う。)ため、インターネットにおける情報の発信者を突き止めることは、各サーバーの管理者(インターネットサービスプロバイダー等)がそのログを開示しさえすれば、それほど困難なことではないはずである。

(プロクシサーバーのような中継サーバー技術を使えば、途中でそのサーバーから発信したように見せかけることもできるが、中継サーバーを逆にたどって行けば、発信元を突き止めることはできるので、あまり本質的な偽装にはなっていない。送信元のIPアドレスを始めからパケットレベルで偽装することも、技術的にやってやれなくはないが、かなりの技術知識がないとできないため、ほとんどそんなことをしている人間はいないのではないかと思われる。メールにしても何にしても、インターネットにおける通信を技術的に途中で傍受することは極めて容易である。技術的に容易なことと、それが法律で許されるかは別な話であるが、秘密にしたい情報の通信を暗号化せずにインターネットで行うのは、はっきり言って愚の骨頂である。)

 そして、何度も繰り返すが、法律的に、警察なりがきちんと刑事上の手続きを踏めば、このログが開示されないことはないのである。現地警察との連携が必要となるかも知れないが、海外サーバーへの書き込みにしても、発信元が日本である限り、必ず日本のサーバーが発信元となり、中継を行っているはずで、発信者の特定が最後不可能ということはないはずである。(ただし、ここら辺の実務を私も詳しく知っている訳ではないので、何か特別な事情があるということを知っている方がいれば、教えて頂きたいと思う。)

 ネットでは匿名性が完全に確保されていて、どんなことを書き込もうが完全に自由であるなどということは、日々ネットへの書き込みで逮捕者が出ていることから考えても、幻想であると誰もが悟らなくてはならない。皆がやっていることだから自分もやっても良いだろうなどということはない。そのような主張も間々見かけるが、そんなセリフは、理性的な判断が期待される大人のものではない。

 かえって、このように技術的にインターネット上で匿名で通信を行うことが困難であるからこそ、他人の財産や身体の安全に具体的な害が及ぶ情報の書き込みでない限り、表現の自由や通信の秘密、検閲の禁止といった原理は必ずネットで確保されていなければならないというのが私の意見である。その意見が自分と違うことのみをもって怨恨を抱き、正当な反論以外の不当な手段によって他人の意見を圧殺しようとする人間は昔から後を絶たないのだ、世の中には匿名でしかできない意見表明もある。ある人間がどのような情報にアクセスしたかを他人が知り得たら、その人の情報アクセスに確実に影響が出るのだ、公表された情報については、これを匿名で読む権利も人にはある。人間の行為をコミュニケーション手段の問題にすり替え、コミュニケーション手段そのものを管理・圧殺しようとすることは、古来より権力者たちが幾度となく試みてきたことであるが、それは常に国の暗黒時代を招き、失敗してきたのである。

 皆インターネットを過大評価しすぎているのではないだろうか。インターネット自身はどこまで行っても単なる情報通信手段・コンテンツの流通手段・コミュニケーションの場に過ぎないのである。これが極めて便利だからといっても、それは非難されるべきことではなかろう。
 学校裏サイトの問題にしても、いくら学校裏サイトを潰そうが、インターネットへのアクセスを禁止しようが、最後匿名でのいじめはリアルでも可能であることを忘れていないだろうか。有害・違法サイトの問題にしても、サイトに載っているのはどこまで行っても単なる情報なのであり、それ自体では有害でも違法でもあり得ないことを忘れていないだろうか。現実の問題がネットに漏れ出しているだけであるにも関わらず、あたかも、ネットそのものをなんとかしさえすれば、問題が解決するかのごとき印象操作が行われているのではないか。

 もはや、いじめは何故いけないのか、何が社会的に有害な行為なのか、違法な行為なのかということを、法律と技術の知識を前提に、全ネットユーザー・全国民にきちんと教えなければならない時代になっているのであって、この国民教育を怠れば、どんな規制を作ろうと、最後何の効果ももたらさず、事態を悪化させて終わるだけであろう。また、このような法律と技術の両方を良く知った上できちんとした教育をできる者がほとんどいないとしたら、どんなに時間がかかろうと、まずこのような教師の養成をすることから始めなければならないだろう。

(それにしても、日本の最高学府を出たと思しき官僚たちの書くペーパーから見て取れる、その情報リテラシーの低さは喫緊の大問題である。役所からの情報漏洩が止まらないのも無理はない。まず彼らに正しい情報教育を施すことから始めるべきだろう。それでも情報の何たるかについて理解できないようであればもはや手に負えない。教育によっても改善が見られないような有害無益な官僚にはすみやかに仕事を辞めてもらうしかない。)

 ネットでの情報利用には今でも常にリスクと責任が伴っているということを本当にネットユーザーの一人一人が意識して始めて、ネット犯罪の問題は収束に向かうだろう。繰り返しになるが、インターネットはまだ生まれたばかりで、本当の意識改革はこれからである。拙速な規制はこの意識改革を止め、ネットの暗黒時代を招く愚策であると私は何度でも言い続けるだろう。

 私がネット規制賛成派に期待したいことは、最後、このような技術と法律の実態も踏まえて議論してもらいたいというだけのことである。実態を良く知らずに規制に賛成することは、常に、自分たちの権限に対する制約を外して権限を伸ばしたがっている役人たちに乗じる隙を与えることに、今まで確保されていた貴重な国民の自由をみすみす国賊官僚どもに売り渡すことになるのだから。

 次回は、「コピーフリー文化」と題して、また知財の話をするつもりである。

(1月22日の追記:通常ログが残るのはWEBサーバなどであり、上で「中継サーバ」と書いたものは通常はHDを搭載していない「ルータ」と呼ばれるネットワーク機器であるため、ここでログは残らないという指摘をコメントで頂き、確かにその通りだと思ったので、そのように訂正した。)

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2008年1月19日 (土)

第50回:インターネットでサイトの届出制を採用しようとする警察庁の狂気

 先日、警察庁から出されたネット規制案(ITmediaの記事internet watchの記事マイコミジャーナルの記事)にも私は唖然とした。知財政策とはもはや完全に関係なくなるので、このような問題を専門に追いかけているブロガーにまかせようかとも思ったが、あまりにも腹立たしいので、今回はこの話を取り上げる。

 第46回の「規制の一般論」では例をほとんどあげなかったが、この警察庁の規制案は、提示されている解決策がまるで問題の解決に結びつかない有害無益な規制の典型例である。

 その説明をする前に、出会い系サイトにより発生する問題を放置するべきだなどということを言いたいがために、この記事を書いているのではないとまず始めにはっきりと書いておく。この点が印象操作レトリックの対象となることは、第37回に書いた通りであるが、私が言いたいのは要するに、出会い系サイト問題に対する警察庁のアプローチは完全に間違っているというだけのことである。

 警察庁の規制案は、その「出会い系サイト等に係る児童の犯罪被害防止研究会」で検討されていたものであり、パブコメ(1月31日〆切)にかかっている報告書の要点は、以下の通りである。(これ以外の点についても突っ込みたいところは山ほどあるが、ここでは一番ポイントとなる部分のみを取り上げる。)

  1. 出会い系サイト事業は、都道府県公安委員会に対する届出制とする。
  2. 天下り半官検閲センターであるインターネット・ホットラインセンターに対し、公安委員会が届出がされた事業者についての情報提供を行う
  3. 違反者は行政処分の対象とする。罰則は警察庁が検討する。

 まず、警察の報告書が印象操作と論理破綻のオンパレードであることからして許し難いのだが、最初から書いていくと、まずインターネットにおける事業者の把握が困難なことと、届出制は全く結びつかない。事業者の把握が困難な理由としてあげられているのは、(1)警察が情報開示を求めても事業者が個人情報保護を理由に開示に応じない、(2)海外サーバを経由された場合、海外サーバ事業者等の協力を求めなくてはならないが、これは困難、(3)事業者が仲介業者を介して電気通信事業者と契約している場合、電気通信事業者の契約相手が出会い系サイト事業者と一致しない、という3点であるが、届出制を採用したところで、このような海外のサーバや仲介業者を使っているような悪質業者が完全に特定困難だとすれば、届出に対する違反の罰則すら適用不可能なはずであり、このような規制は全く悪質業者対策にならないはずである。

 報告書には、今の出会い系サイト規制法(「インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律」)における「インターネット異性紹介事業」の定義は、犯罪の構成要件ともされるくらい厳格な要件であり、十分に明確であるとも書かれているが、その第2条の定義は、

異性交際(面識のない異性との交際をいう。以下同じ。)を希望する者(以下「異性交際希望者」という。)の求めに応じ、その異性交際に関する情報をインターネットを利用して公衆が閲覧することができる状態に置いてこれに伝達し、かつ、当該情報の伝達を受けた異性交際希望者が電子メールその他の電気通信(電気通信事業法 (昭和五十九年法律第八十六号)第二条第一号 に規定する電気通信をいう。以下同じ。)を利用して当該情報に係る異性交際希望者と相互に連絡することができるようにする役務を提供する事業

というに過ぎない。要するに、面識のない異性交際のためのやりとりを通信で可能とするような事業は全て含まれ得るのであって、それこそ、この定義なら、普通の掲示板・SNS・ブログやメールサービスですら入ってしまい得るだろう。第6条の不正誘引行為について刑罰が科されているにしても、児童を不正に誘引することをもって刑罰を科しているのであって、このことが上の定義が明確である理由とならないのは当たり前の話である。こんな初歩的な論理すら分からない警察に、私は公共の安全と秩序の維持をまかせておきたくない。

 そもそも、売春を誘いたいと思えば、電信柱にビラを貼ったって、駅の掲示板に書いたって、便所の壁に書いたってできるのである。だからと言って、電信柱を、駅の掲示板を、便所の壁を無くすべきだなどと言う人間がいるだろうか。繰り返しになるが、人間の行為から引き起こされる問題をコミュニケーションの場の所為にすることには、常に危険な論理のすり替えがあるのであって、このような規制は、そもそも最初からアプローチが完全に間違っているのである。

 また、何の取り締まり権限も削除要請権限もない単なる民間団体に、役所(公安委員会)へ届け出られた情報をそのまま垂れ流して、それで児童被害が防止できると言うなど、気が狂っているとしか思われない。このような取り締まりや削除要請はあくまで、法律によって制限を受ける権限に基づいて警察が行うべきものであり、きちんとそのような取り締まりや削除要請を行う人員を警察に確保しておけば良い話である

 また、罰則を警察庁で検討するとしているが、取り締まる側の人間が罰則を検討するのはデタラメも良いところである。もはや三権分立は建前すら守られていない

 要するに、この妄想ペーパーから浮かび上がってくるものは、届出制によって手に入れた情報を半官検閲センターであるインターネット・ホットラインセンターへ流して、ここを通じた不透明な行政指導を正当化し、大手出会い系サイト業者(しかもあるサイトが出会い系サイトかどうかの判断には常に恣意性が混じる)から無理矢理その天下り団体へテラ銭を巻き上げようとする警察官僚のあきれた姿であり、これは、警察庁もまた官僚組織の宿痾である腐敗に芯まで侵されていることをはっきりと示している。

 そもそも問題の多い中小の業者は、まず間違いなくこのような規制を無視して、海外サーバなりを経由して、一見出会い系サイトに見えない出会い系サイトの運営を始めるであろうことを考えると、結局、この規制案は社会的に何の役にも立たないどころか有害であり、単に天下り役人のタダ飯の種を増やすだけの最低の案であるとしか言いようがない。

(この報告書において売春防止法に対する言及が全くないことにもさらに不信感はつのる。その第5条にははっきりと、

「(勧誘等)
第5条  売春をする目的で、次の各号の一に該当する行為をした者は、六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
一  公衆の目にふれるような方法で、人を売春の相手方となるように勧誘すること。
二  売春の相手方となるように勧誘するため、道路その他公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
三  公衆の目にふれるような方法で客待ちをし、又は広告その他これに類似する方法により人を売春の相手方となるように誘引すること。 」

と書かれているのであって、年齢にかかわらず、それがインターネットであるかどうかにもかかわらず、全て公衆の目にふれるような方法で売春を誘う行為は既に刑罰の対象となっているのである。
 この警察庁のペーパーは、要するに、児童売春はダメだが、それ以外の売春は良いので、警察が管理するところでやりなさいということを言っているのだろうか。そんな癒着を考えているとしたら、こんな天下りセンターは、即刻「サイバーパトロール団体」ではなくて「サイバー赤線団体」とした方が良いだろう。)

 児童保護のために表現の自由を制限してサイトへの書き込みを削除して良い場合がある、すなわち、届出制によって付与された不透明な行政指導権限による検閲が正当化できるということではないということも指摘しておく。このような論理の飛躍は決して許されてはならない。

 警察の調査団体のおとりの書き込みに何百のレスがつこうと、それが売春誘引行為なり、児童に対する不正誘引行為なりであれば、その時点で既に犯罪なのであり、その書き込みがされたという事実をもって警察による削除要請や、書き込んだ者に対する取り締まりがなされるべき話であって、それ以上の話ではない。犯罪である以上、警察による捜査関係事項照会書や裁判所による差し押さえ令状の発行をきちんと行えば、プロバイダー等から情報開示がなされるのであり、この手続きを飛ばそうとする警察の怠慢あるいは不法は許されてはならない。売春行為・児童売春行為が大手を振って許されている国もないであろうから、海外サーバを経由している場合であっても、現地の警察ときちんと協力すれば取り締まりが可能なはずである。出会い系サイトの問題は日本だけの問題でもないであろうし、そのための相互協力を惜しむ国があるだろうか。このような地道な取り締まりに多少コストがかかろうと、それは社会的に正当なものであり、認められてしかるべきである。

 また、いくら誘引の書き込みがあろうと、所詮そこまでは単なる情報なのであって、売春行為の契機とはなっても、売春行為自体ではあり得ない。情報を受ける受け手が、行為の犯罪性と、ネットにおける情報利用のリスクをきちんと把握して売春行為を思いとどまれば、最後問題は発生しないはずである。法規制では最後、人と人とのコミュニケーションそのものを止めることは絶対にできない。無意味な規制は何も問題を解決せず、かえって事態を悪化させるだけである。既に現行法でもネット利用には十分過ぎるくらいのリスクがあることを含め、きちんとしたネットリテラシー教育を行うことが今本当に必要とされていることなのである。

(EUもコントロールよりリテラシー向上が重要と考えているらしいことは、第47回でも書いたが、警察庁自らまとめたのだろう「「出会い系サイト」に関する諸外国法制調査結果」を見ても、諸外国で、出会い系サイトの届出制を取っている国はない。これもまた官僚たちが自分たちに都合の良いときだけ、「国際潮流」を持ち出し、そうでないときは黙殺する好例である。)

 とにかく闇雲に天下り利権を強化したいだけの規制策を打ちしてくる日本の役所はどこも狂っているとしか思われず、全省庁に対する見張りの目が必要であるのは言うまでもないが、特に、警察は、その根拠法である警察法に、はっきりと以下のように書かれているだけに、この日本の役所全体を覆う狂気の病根の深さに私は背筋が寒くなるのを覚える。

「第2条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。」

 役人たちに世の中に害悪を垂れ流してムダ飯を食わせるために、私は国に税金を払っているのではない。腹立たしい限りであり、一国民として言うべきことは言っておかなければならない。さらに考えをまとめた上で、私はこのパブコメも出すつもりである。

 ついで(といっても何故こちらを「ついで」にしなければならないのか良く分からないが)に、17日に開催された私的録音録画小委員会が記事(ITproの記事ITmediaの記事)になっているので、念のため、ここにそのリンクを張っておく。記事によると、相変わらず、ユーザー・消費者軽視の検討が続けられているようであるが、補償金の多寡・有無を権利者の意思という曖昧なもののみによって決めてはならないし、コピーワンスにせよ、ダビング10にせよ、DRMで消費者の利便性を不当に制限した上で、さらに補償金を賦課するなど不当の極みである。記事で触れられている小泉委員、野原委員、河村委員の意見は極めて正しい。私的録音録画補償金問題もここまできた以上中途半端な妥協は許されない。今後もさらに、補償金の意味が徹底的に洗い直されることを私は期待する。補償金問題は、ITmediaの記事にあるような3枚紙程度で片付くような生やさしい問題では決してない。著作権戦争に終わりはないのだ。

 また少し知財政策とはずれてしまうが、ネット規制の問題と絡む話で、次回はネットの匿名性の話を取り上げたいと思っている。

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2008年1月16日 (水)

第49回:「Old Culture First」

 権利者団体が、また集まって「Culture First」なる標語で、補償金制度の維持・拡大を求めているようである。(ITproの記事internet watchの記事ITmedia記事

 今の補償金は文化の発展のためにカケラも役立っておらず、単に既存の権利者団体の既得権益と化していることこそ、補償金制度改革の最大のネックになっているのだと、私はこのブログで何度も繰り返してきた。

 とにかく補償金が減ったので増やして欲しい、ただし、団体同士あるいは団体内での権益配分は今のままどんぶり勘定でと言っても、そんなことで国民の理解が得られると思う方が間違っている。もともと正当性があやふやであった金について、これが減ったから増やせということには、何の利も正義もなく、ただひたすら不当である。

 権利者団体が、補償金を本当に文化全体のことを考えて補償金を使いたいと考えているのなら、そこには、新しい文化への理解が、新しい文化のためにその用途を振り向ける提案があって良かったはずだが、様々な報道や記事を読んでいて、そのような提案はついぞ見かけなかった。彼らの主張は、いくら文化の外面をかぶろうと、要するに、今までの不労所得が減ったので、これを増やしてくれという老人の妄言に過ぎない。

 そんな連中があたかも文化全体を担っているかのごとき顔をするのは許されない。単なる権利者団体が、あたかも自分たちのみが文化全体の旗手であるかのごとき顔をして、「Culture First」など言うのはおこがましい話である。補償金制度について何ら新規な提案をできず、壊れたレコードのように同じことを繰り返し言い続けていること自体、自分たちが伝統文化と化したことを、斜陽文化と化したことを告白しているに等しい。その標語も「Old Culture First」と変えたが良かろう。

(だからと言って私は、古い文化が潰えて良いなどというつもりは全くない。古い文化なら古い文化なりの保護をするべきなのであって、権利者団体は素直に自らの文化とビジネスモデルの敗退を認めて、古い文化としての保護を求めれば良いと言っているだけのことである。)

 補償金が減ろうが増えようが、有ろうが無かろうが、そんなことで本当の文化はびくともしない。そもそも人類の歴史において文化のない時代は無かったが、著作権制度はごく最近に作られたものに過ぎず、補償金制度に至ってはさらに最近のものである。それこそ著作権制度を全て無くしたところで、本当の文化は無くなりはしないだろう。
 既存の既得権益団体のためのみに不当に強化された著作権制度など、もはや文化の営みに歪みをしかもたらさない。文化の最先端は常に新しいところにある。インターネットユーザーこそ今の本当の文化の旗手であると私は断言する。私は無名の一ブロガーに過ぎないが、断固としてここに立つ。

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第48回:コンテンツ産業の真の敵

 今回は、産業論よりの話をしてみたい。(文化と産業は盾の両面であり完全に切り離すことはできないが、それぞれ異なる側面であることを忘れてはならない。しかし、大体どこでも文化論と産業論がごっちゃにされ、さらに議論の混乱に拍車をかけているのは実に残念である。)

 インターネットにおける無許諾コピーによる途方もない被害がコンテンツ産業にとっての敵であり、この敵さえ撲滅すれば皆にとってバラ色の未来が開けるとする意見もある。
 しかし、映像であれ、音楽であれ、ゲームであれ、あらゆるコンテンツの情報化が進み、インターネットの普及も爆発的に進んでいる中、そこでの無許諾コピーを、有体物の流通コストをともなう現実のコピーと同一視して、被害額を計算したら途方もない額となるのは当たり前の話であり、基本的にこのような被害額計算は全てナンセンスである。(真面目に取り合う気すら起きないが、著作権団体などが次々と出してくる報告書のバカバカしい被害額を積み上げると、コンテンツ産業は既に完全に壊滅しているという結論になるのではないか。)

 現実の現象のみを見れば、別にインターネットの普及によってコンテンツ産業が全体として壊滅的なダメージを受けたということはないし、かえって新たな流通チャネルが一つ増えたことでコンテンツ販売の機会が増えたと考える方が妥当なのではないかと私は思う。(例えば、デジタルコンテンツ白書2007では、パッケージメディアのシェアは減ってはるものの、かえってコンテンツ産業全体としては規模が伸びているとしている。本当なら様々な統計と突き合わせなければならないところだが、ここで言いたいことに対する裏付けとしてはこれくらいでも良いだろう。)

 確かに、個人的にも、いくらインターネットで便利になったところで、娯楽のために使用している時間と所得の割合が変わったという気は全くしない。結局、自分たちが儲からなくなったのはインターネットの所為だとする著作権団体の主張は、コンテンツの多様化と景気の動向によって自分たちの旧来のビジネスモデルのパイが相対的に減っただけであるにもかかわらず、そうと認められずにインターネットに責任転嫁をしているだけとしか私には思われない。単なる流通手段に良いも悪いもある訳がなく、旧来のビジネスモデルの敗退を流通手段の所為にしたところで、詮ないことである。

 インターネット上で娯楽を探そうと思えば、別に音楽や映像を探さずとも、掲示板やブログで読んだり書いたりしたところで全く構わないのだし、それこそ、メールのやりとりを最大の娯楽にしている人もいるだろう。これらはインターネット登場前までは考えられなかったコンテンツの形態である。文化の本質は、コンテンツの消費にあるのではなく、人と人とのコミュニケーションにあるのであり、そこからどうビジネスに結びつけていくのかはその次の話である。コンテンツの多様化自体は、コンテンツ産業全体として見れば良いことでありこそすれ、決して悪いことではないはずである。(コンテンツの多様化が一部の既得権益者の不利益となり得るのは確かだが、それは全体を見た話ではない。このような一部の既得権益者のみが強い政治力をもって一国の政策判断を左右しているとしたら、それは社会全体にとって不幸な話である。多様性を規制によって潰すことはほぼ常に文化と産業にとって悪であったし、今後もあり続けることだろう。)

 産業すなわち商売の基本は、いかに消費者の財布をゆるませるかということであって、それ以上でもそれ以下でもない。この商売の本質を忘れて、法律をいくらいじくったところで、旧来のビジネスモデルにこだわり続ける限り、消費者の財布がこれ以上ゆるむことはなく、その業界はさらに斜陽化の一途をたどるだけである。ビジネスとして考えれば、複製に必ず対価を求めなければならないとすることもないし、対価回収のやり方も一つではない。ビジネスの発想においてまで著作権法にとらわれる必要はどこにもないのである。様々なビジネスモデルのトライアルがなされ、ビジネス慣習を打ち破るのに時間もかかると考えられる中で、著作権を無意味に強化することは、かえって将来のビジネスモデルを阻害することになるだろう。法律に現実を合わせることは最後不可能であり、常に現実に法律を合わせるべきなのである

 だが、世の中には個別のビジネスにおいていくら努力したところで、どうにもならない社会全体の問題から派生してくる問題がある。コンテンツが娯楽品であり生活必需品でない以上、コンテンツ産業は確実に景気の影響を色濃く受けるであろうし、実に、この景気の足をこれからも引っ張り続けるであろう、少子高齢化問題と、これと日本の社会構造が組み合わさって生じたニート、フリーター、ワーキングプアと言われている層の固定化の問題こそ、日本のコンテンツ産業にとって致命的なダメージを与える真の敵となるだろうと私は考えている。

 既に少子高齢化の影響は、社会の様々なところに歪みを生みつつあるが、コンテンツ産業も例外ではない。私の見る限り、既に様々なコンテンツの訴求対象年齢は確実にあがっている。訴求対象年齢が人口の中心とともにあがっていくのは、商業主義の必然ではあるが、これは、コンテンツ産業が、全体として若者を見捨てて行くという傾向であり、文化的にも産業的にも決して好ましいものではない

 文化は常に未来のものであり、過去のものとなった瞬間、その文化は死ぬのである。別に老人の老人による老人のためのコンテンツを否定するつもりはないが、若者も子供も、そのようなコンテンツに見向きもしないに違いない。今ですら、業界が日々大量に生産しているコンテンツの中に、若者や子供が本当に求めているものがどれくらいあるのか甚だ心許ない限りである。

 このような既存のコンテンツ業界の有様を見て、自分たちが本当に欲しいコンテンツを自ら生み出し、自ら享受する場として、若者がインターネットを選択しているのも無理のない話である。このような表現の場の自由を守ることには、未来の文化と産業を育てるための投資と考えられなくてはならないし、このような自由を守るためにこそ社会的コストはかけられなければならない。若者への投資は、既得権益者は誰一人得をしないが、必ず社会全体にお釣りつきで返ってくるものである。(ダウンロード違法化は、このような場に既存の利権構造を持ち込もうとしているからこそ、これだけの反発を招いているのである。あれだけのパブコメを見てなお、それは無許諾無償のダウンロードを無限にしたい悪意ユーザーのなせる業だと考えている人間がいるとしたら、そんな人間は即刻気違い病院に入れた方が良い。)

 コンテンツ産業が、常に盾の両面として文化の側面もあることを考えれば、商業主義によるコンテンツそのものの高年齢化の弊害を少しでも緩和するべく、政策的に若者への投資をきちんと行うべきであろうが、法律も国家予算も、政官業の既存の利権屋たちのみの間で完全に食いものにされ、若者への投資という考え方が政策的に全く出て来る余地がないのは本当に残念でならない。さらに、既存の利権では食えなくなったからと言って、若者の可能性まで食いものにしようとするに至っては言語道断である。若者の未来を摘む権利は誰にもない

 このブログをどれほどコンテンツ業界の人間が見ているかは分からないが、もし読んでいるなら、文化的な創造行為とは全て、子供の頃に見た見果てぬ夢を人に伝えようとする飽くなき欲求の発露であることを、子供と若者にこの未来への夢を見せることこそ文化に課せられた最も崇高な使命の一つであることを是非思い出してもらいたい。この未来への投資を怠ったら、法律がどうあろうと、かならず文化は産業としても衰退する。しかし、逆にこの未来への投資さえきちんとしていれば、法律ごときがどうあろうと、かならず文化は産業としても栄えるのだ

 なお、著作権関係の国際動向として、スウェーデンでは、少数派とは言え、P2Pのファイル共有を合法化しようとする国会議員グループの運動がある(英語のネット記事参照)ことを、また、カナダでは、連邦控訴裁判所が、iPodへの補償金賦課の権限はカナダ著作権委員会にないとして、iPod税を否決している(英語の記事1記事2記事3参照)し、カナダにおける著作権問題に対するユーザーの運動がさらに広がりを見せているようである(英語の記事参照)ことを、ここでついでに紹介しておく。

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2008年1月14日 (月)

第47回:文化を保護せず、天下り利権のみを保護しようとする文化庁の醜態

 この1月11日に開催された法制問題小委員会のネット記事(ITproの記事internet watchの記事)などを読んで、コンテンツ産業にとっての敵の話をする前に、国民の敵である文化庁の話をもう一度しておきたくなった。

 ネット記事で、小委員会中、パブコメの形骸化を心配する委員からの発言があったとのことだが、文化庁はこれに対して何と答えたのだろうか。記事が何も伝えていないところを見ると、どうせ要領を得ない回答をしていたのだろう。

 どこにおける意見にせよ、ある発言を自らの意見と違うということをもって黙殺・圧殺することこそ、文化にとって最も忌むべきことである。この文化にとっての本質を、もはや文化庁は認識していないのだろう。自由な意見交換を無意味なものした瞬間、普通の人間であれば、意見を言う気力を失うはずであり、法制問題小委員会が沈黙の支配する重苦しい空気で包まれたのも当たり前の話である。

 自分たちが守ろうとしているものが実は文化ではないことを自ら露呈していながら、もはやそんなことすらどうでも良く、闇雲に天下り利権を守ろうとする今の文化庁の様は、ただひたすら醜悪である。このような醜態をさらしてもなお平然としていられるくらい、官僚のモラルは低下したのだ。しかし、いくら官僚たちが既存の既得権益の強化を図ろうと、時計の針は元に戻らない。時計の針を逆回転させようとする努力は全て社会的コストの無駄であり、無様な醜態をさらすだけのこととなろう。

  法制問題小委員会はさらに24日に予定されており、「機器利用・通信課程における一時的蓄積の取り扱い」や「私的複製の範囲の見直し」といった極めて重いテーマを扱うようであるが、果たしてどうなることだろう。

 17日23日に開催が予定されている私的録音録画小委員会もどうなることだろうか。その文化に対する定見のなさから引き起こされる社会的混乱と国民全体のモラルハザードは、文化庁ごときが責任を取れる話ではない。

 今日の日経新聞の記事でも、国会のねじれ状況もあり、ダウンロード違法化の今後は不透明であるとしていたが、これが正しい認識だろう。文化庁だけで法案が提出できる訳でもなく(法案を提出するのはあくまで内閣であって、文化庁ではない)、さらに衆参両院の可決も必要なのである。さらに言えば、法案提出前に総選挙が挟まる可能性も高い。

 例え何があろうと、不当なものは不当だと言い続けなければならない。私はそれが一国民としての義務であると思っているし、このブログでも言い続けることを止めるつもりは全くない。

 また、自分たちの方針にとって都合の悪い「国際潮流」を日本の政官はほぼ間違いなく黙殺してくるので、欧州も、ネットにおける問題は、規制よりも教育で解決されるべき問題であるとしている(internet watchの記事EUのプレス記事)ことを、ここではっきりと指摘しておく。欧州当局がいかに著作権の強権化を図っていようと、彼らは同時に、その歴史から、自由な意見表明の場の本質的な重要性についてもはっきり認識しているのであり、これもまた、欧州と日本の当局の責任者・担当者の文化的素養の差を示す好例である。

 今まで書き漏らしていたが、MIAUでも、この16日にダビング10シンポジウムを開く予定であるということを、遅ればせながらここでも紹介しておく。コピーワンスあるいはダビング10問題についても混乱を避けるため、今後も最大限の努力がなされなくてはならない。このようなMIAUの地道な活動を私も心から応援したいと思う。

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2008年1月12日 (土)

第46回:規制の一般論

 ネット規制については第37回に書いたので、さらに規制そのものの一般論について、私なりに考えたことを今回は書いておきたい。(個別の政策からはさらに遠くなるが、有体物と異なり、基本的に無体物の占有は規制によってしか実現され得ず、知的財産権は財産権としての性質だけではなく常に規制の性質も持っているということから知財政策との関係を理解して頂ければと思う。また、規制は法律のみを指すとは限らない。技術であれ契約であれ、国民全体に選択の余地なく与えられるものは全て、ここで言うところの規制たり得る。)

 まず、表現の自由や検閲の禁止、通信の秘密等に抵触する規制が論外なのはさておき、どんなものであれ規制を論じる際には、そもそも一般的に規制の実行には常に社会的コストがかかるということは必ずはっきりと認識されていなくてはならない。すなわち、国家レベルで行われる規制には常に莫大な社会的コストが発生するのであり、規制によるメリットがこのデメリットを超えるとする明白な論拠がない限り、基本的に国家による規制は絶対に正当化され得ないのである。(ここで良く印象操作レトリックが使われることは第37回に書いた通りであるが、ここでも、私は、表現の自由や検閲の禁止、通信の秘密が絶対的なものだなどと言っているのではないと念を押しておく。全ての権利は相対的なのであり、他人の身体や財産などを侵害する場合は、無論、表現の自由や検閲の禁止、通信の秘密といった権利も制限を受けるのである。また、この財産に無体物の知的財産が含まれ得ることについても何ら依存はないが、「財産権≠知的財産権≠著作権≠複製権」という不等式はもっとはっきりと認識されていて良い。この一般的な財産権と知的財産権の関係については、また別途詳しく書きたいと思っている。)

 そして、具体的な規制理由、具体的な規制主体、具体的な規制対象を常に明確に念頭におきながら考えないと、このメリット、デメリットの正しい評価はできないはずだが、最近の政官で、これらの点をなおざりにして問題のみを強調する思考停止がはびこっているのを見るにつけ、全くもって憤慨を禁じ得ない。(分かってやっているのであればまだ合理的な議論の余地もあろうが、そうでないとしたら最もタチの悪い善意の押し売りである。地獄への道は善意で舗装されているという格言を思い起こしてもらいたい。)

 どこであれ、人と人とが触れ合う以上必ず問題は発生するのであって、「問題がある、すなわち規制が必要」ではあり得ない。その問題の真の発生原因が何かを考えず、その性質に応じた合理的な対策を取ることを置き去りにして、無意味かつ無駄な規制を入れると、必ず人心の荒廃と国力の衰退という結果を招くに至ることは、歴史が語る真実である。(世界規制史についてここで長々と書いても良いが、そうするまでもないくらいのことだろう。)

 腐り切った今の政治家と官僚が打ち出す最近の規制強化策には、規制によって発生する莫大な社会的コストにたかろうとするハイエナ根性しか見られない。すなわち、それぞれ程度の差こそあれ、自分たちのみで規制主体をコントールして、そこに投じられる国民の血税を食いものにしたあげく、この国民の財産と権利に対する明らかな侵犯を隠蔽するために情報統制を敷こうとする悪逆非道の意図が透けて見えないものはないのである。彼らの「権利を守ることが重要」というセリフは全て「利権を守ることが重要」と、「規制が必要」とは全て「寄生が必要」と読みかえなくてはならないほど、その傍若無人ぶりは目に余るものがある。

 それにひきかえ、規制に比べて大したコストがかかる訳でもない合理的かつ地道な取り組みに社会的コストを振り向けることが、何故できないかというと、まさしく大したコストがかからないが故に利権屋にとってのうまみがなく、もはや単なる利権屋と化している日本の腐った政治家と官僚にそのインセンティブが全く働かないからである。(なお、知りたい方がいれば、このことについてさらにまとめの記事を書いても良いが、政治自体に様々な法規制による参入障壁が作られていることこそ今の政治の硬直と腐敗の遠因である。)

 無意味かつ無駄な規制を新たに作るような社会的余裕は今の日本にはない。寄生政治家や寄生官僚が有害無益な規制強化策をいくら国民に押しつけようとしたところで、無い袖は振れない。なお押し売りをしてくるようであれば、そのように国民の財産と権利を不当に侵害する政府に国民の代表たる資格はないと私は断じる。このような政府に対しては、あらゆる手段は正当化される。国家に巣くう寄生虫どもよ、国民と歴史による鉄槌を恐れよ。この鉄槌を免れる者はいないのだ。

 次回は、「コンテンツ産業の真の敵」というタイトルで、また知財政策の話に戻るつもりである。

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2008年1月10日 (木)

第45回:私的複製の権利制限とDRM回避規制の関係

 DRM(Degital Right Management:技術的保護手段あるいは技術的制限手段)回避規制の現状については第36回にも書いたが、今回は特に、DRM規制と私的複製の権利制限との関係について書いておきたい。

 まず、話の前提となる平成11年のDRM回避機器規制の導入経緯から書き始めるが、著作権法にDRM回避規制を導入することを決めたのは、平成10年12月の「著作権審議会マルチメディア小委員会ワーキング・グループ(技術的保護・管理関係)報告書」であり、不正競争防止法にDRM回避機器規制を導入することを決めたのは、平成11年2月の「コンテンツ取引の安定化・活性化に向けた取り組みについて-産業構造審議会知的財産政策部会デジタルコンテンツ小委員会及び情報産業部会基本問題小委員会デジタルコンテンツ分科会合同会議報告書-」である。(行政に属する有識者会議の報告を元に法改正がなされるのは常に不可解でならないが、特に後者の探しづらさときたら何かの嫌がらせとしか思えない。)

 まず、文化庁の著作権審議会報告書でやはりポイントとなるのは第2章第5~6節の「規制の対象とすべき行為」と「規制の手段」のところであろう。特に私的複製の権利制限との関係については、第2章第5節4.の「権利制限規定との関係」で、以下のように整理されている。(赤線強調は私がつけたもの)

「(前略)このうち,私的使用のための複製については,次のように考えられ,技術的保護手段の回避を伴ってまで行われる複製についてはこれを適法な複製として認めることは適当ではないと考えられる。
  そもそも私的使用のための複製を認めている趣旨は,上記(a)に該当し,個人や家庭内のような範囲で行われる零細な複製であって,著作権者等の経済的利益を害しないという理由によるものと考えられる。一方,技術的保護手段が施されている著作物等については,その技術的保護手段により制限されている複製が不可能であるという前提で著作権者等が市場に提供しているものであり,技術的保護手段を回避することによりこのような前提が否定され,著作権者等が予期しない複製が自由に,かつ,社会全体として大量に行われることを可能にすることは,著作権者等の経済的利益を著しく害するおそれがあると考えられるため,このような,回避を伴うという形態の複製までも,私的使用のための複製として認めることは適当ではないと考えられる。なお,現行著作権法においても,公衆用自動複製機器を用いて行う複製については,社会全体として大量の複製を可能ならしめ,著作権者等の経済的利益を著しく害する形態の複製であるとして,私的使用のための適法な複製から除外されているところである。一方,私的使用のための複製については,幅広い観点から,デジタル化・ネットワーク化の進展とそれに伴う著作物等の利用形態の変化をふまえ,権利者と利用者のバランスを考慮した全体的な見直しが必要であるとの意見,回避を伴う複製を規制することについてのコンセンサスが必ずしも社会一般に形成されているに至っていないとの意見等もあったところである。(後略)」

 さらに、第6節では、私的使用のための適法な複製から除外されている公衆用自動複製機器を用いた複製の場合と同じく、私的使用のための回避を伴う複製については刑事罰の対象としないことが適当としている。

 また、経産省(当時は通産省)の産業構造審議会の報告書では、C.3.の「法制化の具体的内容」で、以下のような整理を行っている。(赤線強調は私がつけたもの。)

「(1) 規制される行為
 
(i) 以下の行為を民事上の差止請求、損害賠償請求等の対象とすることが適当である。なお、刑事罰については、経済活動に対する過渡の萎縮効果を回避するとの観点から今回は導入しないこととし、必要最小限の規制にとどめるべきである。
- 取引の対象となる情報のコピー・アクセスを制限する技術の無効化を専らその機能とする機器及びプログラムを提供する行為(譲渡、展示、輸出入等)
 
(ii) 機器等の提供がそれぞれ多くの無効化行為を呼び起こしコンテンツ提供業者に大きな被害をもたらす蓋然性が高いのに比べ、一件一件の無効化行為自体は、互いに独立に行われ、その被害も限定的である。その一方で、個々の無効化行為を一件ずつ捕捉し、民事訴訟の対象とすることは困難である。このため、コンテンツの取引秩序の維持のための不正競争防止法による規制においては、機器等の提供等を対象とし、無効化行為そのものは対象としないことが適当である。
(無効化行為そのものについては、個々の事例に応じて民法上の違法性が評価されることとなる。)

(iii) なお、管理技術の試験又は研究は、新しい管理技術を用いたコンテンツ提供を促進する役割があることに鑑み、例外として取り扱うことが必要である。

(中略)

(4) 提供が禁止される機器等について

(i) 必要最小限度の規制を導入するという基本原則を踏まえ、規制の対象となる機器又はプログラムは、管理技術の無効化を専らその機能とするものとして提供され、無効化以外には用途が経済的・商業的に見て存在しないものに限定することが適切である。
 
(ii) 汎用の機器又はプログラムについては、規制の対象とすることは適当でないと考えられる。
 
(iii) 無効化以外に用途が存在しない機器及びプログラムを構成部分とする(注3)機器及びプログラムの提供行為については、専用装置の提供行為と同視し、不正競争行為として規制の対象とすべきものと考えられる。
 
(注3)「無効化機器・プログラムを構成部分とする」とは、その無効化機器・プログラムが専ら無効化機能を発揮するよう一体的に組み込まれていることを指す。
 
(iv) コピー管理又はアクセス管理のためにコンテンツに施されている信号を検知しない機器(いわゆる無反応機器)の問題については、「これらの機器(無反応機器)が規制されると、コンテンツ提供業者側が自らの利益確保のための信号を一方的に付することが許されるのに対して、機器の提供者側は、全てのコピー・アクセス機器が信号を検知しこれに従うよう措置するよう法的に強制されることとなり、バランスを欠くのではないか」との指摘があった。すなわち、無反応機器に対する規制をあえて行わず、結果として、例えばコンテンツ自体の暗号化のように、機器に追加的な機能を要求することなくコピー・アクセス管理を実現する管理技術が生き残ることを期待すべきだとする考え方である。これは、「今回の法規制導入に際しては、コンテンツ提供業者の十分な自助努力を前提とした取引の仕組みが醸成される環境作りを目指すべきである」との基本的な整理に立つものである。
 機器提供者側の過大な負担を避けて無反応機器を規制する方法として、法令に基づき管理技術を指定した上でその管理技術への対応を機器メーカーに強制するというやり方があるとの指摘がある。しかし、こうした方法は指定されていない技術の開発自体を事実上停止し、結果として管理技術の進歩を止めてしまう恐れがある
 こうした点を踏まえ、無反応機器に対する規制は行わないことが適当である。」

 この引用部分をちょっと読んだだけでも、役所の報告書が矛盾に満ちており、その矛盾を抱えたまま各省庁で法改正案が作られ、さらにはそれがそのまま国会に持ち込まれてなおまかり通るという日本の恐るべき現状が分かるはずである。

 まず、経産省の報告書では、個々のDRM回避行為自体には大した被害もない上、個々の回避行為を一件ずつ捕捉して民事訴訟の対象とすることは困難であるため、回避行為そのものは規制の対象としないとしているのにもかかわらず、文化庁の報告書では、DRMを回避して複製を行うことは、著作権者等の経済的利益を著しく害するおそれがあると全く異なる判断をして、DRMを回避して行われる複製を私的複製の権利制限から除外しているのである。

 また、経産省の報告書では、管理技術の試験又は研究は、DRM回避規制の例外とするべきとしているが、何故か試験・研究のための権利制限は当時著作権法に入れられず、今なお存在していないので、DRMを回避して行われる著作物の複製は、例え本当に試験・研究目的だったとしても違法ということになってしまう。

 さらに、経産省の報告書では、DRM回避機器の販売等に刑事罰をつけるべきではないとされながら、著作権法ではあっさりと回避機器の販売等に刑事罰をつけてしまっている。

 当時の両省庁が何を考えていたのかは、今となっては良く分からないが、少なくとも、個々の行為による事業者・権利者への経済的不利益が限定的であり、一件ずつ捕捉して民事訴訟の対象とすることは困難である場合には、民事による規制すらなされるべきではないという至極真っ当な考えは、経産省では通ったが、文化庁の理解するところではなかったことが良く分かる。そして、技術的な試験や研究が、事業者・権利者の利益を害するどころか、技術の発展を通じて社会全体を裨益するものだという考えも、これまた至極真っ当だと思うが、やはり何故か文化庁の理解するところではなかったのだろう。

 研究のために私的領域でDRM回避行為を行うことすら、著作権法では違法となるのであり、合法的に研究を行いたいと考えている真面目なDRM技術研究者たちは困っているだろう。著作権法のために技術の研究が困難になって良い訳がない。
 ある行為を私的複製の権利制限から除外しても、民事救済だけなら社会的に大した問題は発生しないから良いなどというのは嘘っぱちであることを示す明確な実例がここにあるのであって、そのようなおためごかしにだまされてはいけない。そもそも捕捉不可能な行為について民事のみにせよ規制をかけることは、遵法意識の高い善意者を萎縮させ、国民全体のモラルハザードを招くだけであることは、ここにも良く現れていることである。

 日本はフェアユース型ではなく、列挙型の権利制限を行っているにもかかわらず、国内での文化庁と権利者団体との癒着構造のために、時代に即した権利制限規定の導入が常になおざりにされ、私的複製の権利制限の中に全ての矛盾が押し込まれてしまっていることが、確実に今の私的複製の問題をややこしくしている要因の一つである。文化庁や権利者団体が常に持ち出す著作権国家ドイツやフランスですら、絶版著作物の私的複製を認めていたり、研究を例外としていたり、パロディを権利制限として認めていたりするのだが、彼らは決してこれらの点について触れない。こんな姑息かつお粗末なやり方で国民をだまし続けられるなどと考えている時点で、その文化レベルが知れる話であるが、権利制限が文化の発展に寄与することもあることをはっきりと認め、時代に即した権利制限の充実を真剣に考えないようでは、文化後進国と言われても仕方のない話である。(ドイツとフランスの権利制限については、ダウンロード違法化問題や補償金問題と絡む話として第13回第16回でも取り上げた。)

 すなわち、当時DRM回避規制を私的複製の権利制限に優先させるべきではなかったし、今も時代に即した権利制限規定の充実が望み薄である以上、優先させるべきでない状況であることに変わりはない。著作権法第30条第1項第2号は撤廃されるべきであると私は考える。

 今後、著作権法なり、不正競争防止法の規制なりにおいて刑事罰をさらにつけろとバカげた主張をまた著作権業界がしてくることも考えられるが、捕捉不可能な行為について刑事罰をかけることなどそれこそあり得ない話である。どんな薄っぺらな本でも構わないので、法律の基本書の一つも読んでから出直して来てもらいたい。

 さらに、DRM回避行為規制については、一般ユーザーにもDRMがかかっている状態とそうでない状態の区別がつくだけ、まだ多少は行為規範としての性格くらいは持ち得るかも知れないが、違法と合法の区別が最後まで外形的に判別不可能なダウンロード違法化は法制として完全に破綻していると、私は何度でも繰り返し言おう。

 なお、フリーオの登場で総務省で無反応機器の問題が再び取り上げられることだろうが、フリーオ問題については番外その6で書いたようにこれ以上の規制は無意味であり、無反応機器を規制すべきでないとした過去の整理を動かす理由は何一つない。
(経産省の報告書はそれなりに合理的だが、DRMの有効性の要件を規制に加えるべきかどうかという論点(省略部分に書かれている)で、第1に、法律で「管理する」といった場合、当然に「有効に」又は「効果的に」管理することを意味するので不要としながら、第2に、管理技術の日々の進歩によって「有効な」又は「効果的な」とする判断基準がかえって不明確・不安定となり、事業活動に悪影響を及ぼすおそれがあるため、不要としていることはこれだけで論理矛盾を起こしている。「管理する」が当然に「有効に」又は「効果的に」管理することを意味するとしたら、その瞬間、判断基準の曖昧さが出てくるということに何故気づかないのか。どこの省庁のものであれ、役人の書くペーパーは全て眉につばをつけて読むべきである。)

 ついでに、文化庁が教えてくれないだろう国際動向として、イギリスもフォーマットシフトやパロディを権利制限として認める方針であることを紹介するニュース記事(イギリスの記事ドイツの記事)と、フランスでは消費者団体が集まって行政裁判所に私的録音録画補償金に対する訴えを起こしたことを紹介するニュース記事(記事1記事2)とを、ここで紹介しておく。イギリスが権利制限を補償金制度とセットと考えていることはないようであるし、フランスでも補償金制度は消費者から完全に不当なものと見なされているのである。

 さて、政官が相次いで規制強化策を闇雲に打ち出していることに対しては今一度否と言っておかなければならないと思うので、本当に最近の政策動向にはうんざりさせられるが、次回は、規制の一般論について書いてみたいと思っている。

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2008年1月 8日 (火)

第44回:文化庁公表の私的録音録画小委員会パブコメ結果について

 文化庁のパブコメが去年の末に公表されているが、その公表された数字によると、意見総数は8720通とのことである。これだけの数のパブコメが集まったことも前代未聞なら、これだけの数のパブコメを役所が無視したこともまた前代未聞だろう。

 今回は繰り返しも多くなってしまうかも知れないが、今年の最初の回として、公表されたパブコメを読んで気になったことを書き留めておきたい。

 まず、このパブコメを見ていくと、そもそも審議会に委員を出している各団体(消費者団体、ユーザー団体、メーカー団体、権利者団体の数々)が全てパブコメを出してきており、中間整理が審議会としてのコンセンサスすら得られていないものであることを、審議会が完全に崩壊していることを如実に表している。もはや何のために審議会を作っているのかすら良く分からない。

 また、今まで天下りのパイプに頼ってきた所為か、基本的に各権利者団体の意見は了見が狭く、言いさえすれば自分の権利を誰かが守ってくれるとする甘えが目立つ。いい加減、権利者団体も、天下りのパイプを使って法改正をすれば、自分たちの旧来のビジネスモデルが守られるという甘い考えは捨てた方が良いだろう。法律をいくら変えようと本質的に現実に即していないビジネスモデルは消費者の支持を得られず、廃れるだけである。天下り役人なんかに甘えているより、インターネット時代に本当に受け入れられるビジネスモデルを真剣に模索した方がはるかに建設的である。

 ダビング10の暫定合意を盾にとって、メーカーを非難したり、補償金制度維持を訴えたりしている個人の意見も散見されるが、第2~6章の各種現状についても動員をかけなかったのは権利者団体側の手落ちだろう。本来ならば、権利者団体側は、ここでこそ違法ダウンロードが権利者に経済的不利益を与えていることの明白な証拠などをパブコメで示すべきだっただろうに、これらの章についてのパブコメでは、ほぼ現状の調査とダビング10に対する批判しか書かれていないのである。結局、単にパブコメを賛成反対の多数投票だと思っている権利者団体側の文化レベルの低さがここにも現れている。(だからこそ、MIAUのネットユーザー動員活動も意味のあることだったと私は思っている。)

 繰り返しになるが、もともと私的複製の権利制限があって補償金制度は無かったことを考えれば、そもそも「複製=対価」ではあり得ないし、「私的複製の権利制限=補償金制度」でもあり得ないことは明らかだろう。これらの等式を信じ込ませようとする文化庁と権利者団体の悪辣な洗脳にだまされてはいけない。(なお、補償金制度の意味が私的複製の自由を確保するものであるかないかを法的に曖昧にしたまま、現行の横すべりで補償金を拡大しても、私的複製の自由度は確保されるはずがない。ここにもやはり悪辣な洗脳がある。)
 権利者に「複製権」が与えられていたのは、今まで「複製」にそれなりのコストがかかり、「複製」を元に文化の創造のために必要な社会的コストを捻出してもそれほど問題がなかったために過ぎない。知的財産権は全て社会的な目的の達成のために創設された便宜的な権利であり、著作権もそれを免れるものではない。「複製権」は絶対不可侵の権利ではないのである。
 今本当に問われていることは、技術の発展によってコンテンツの流通・複製のコストがほぼ無視できるほどに下がる中、文化の創造のために必要な社会的コストはどこから捻出されるべきかということなのであるが、ユーザー自らによる無償の文化活動もこれからますます増えてくることが予想される中、権利者団体と既存のビジネスモデルのみを不当に利することは、文化と産業の動向を無視した百害あって一利ない施策であると私は確信する。

 最後に、ダウンロード違法化については、大多数の反対意見はダウンロードの違法化をするなと言っているのであって、意見を重く受け止めてダウンロードを違法化して欲しいなどとする意見ではカケラもないのであり、このような意見のすりかえは決して許されてはならない。天下り団体からの突き上げを「諸般の事情」と称すれば国民をごまかせると思っている低脳な文化庁らしい浅はかな論理のすり替えであるが、国民を舐めるにもほどがある。さらに強行すれば、国民に与えられた手段はパブコメだけではないことを文化庁は思い知ることになるだろう。

 ついでに、この1月1日からドイツではダウンロード違法化をさらに明確にした法律が施行され、ドイツでも多くネット記事(記事1記事2記事3記事4記事5)になっているので、ここで紹介しておく。法改正の内容については、今までこのブログでも紹介しているので省くが、何にせよ1クリックで1万ユーロの罰金あるいは3年以下の懲役の可能性が出てくるという状態は決して正しいとは思われない。ドイツはこの法律によってさらに混乱するに違いない。

 また今年は、EUも域内統一オンライン・コンテンツ市場の実現に向けた検討をするようである(ITproの記事EUの発表資料、フランスでのニュース記事1記事2)が、世界的に見ても、著作権を口実に内外価格差と非関税障壁を正当化している著作権業界に、域内統一をさせることは生半可なことではできないに違いない。補償金問題との絡みもあり、私も分かる範囲で、今後もこのEUの動向についても追いかけて行くつもりである。

 著作権等管理事業法の問題についても近いうちに書きたいと思っているが、もう少し下調べに時間がかかると思うので、次回はDRMの話の続きを書きたいと思う。

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