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2007年10月31日 (水)

第14回:著作権神授説という幻想

 ちょっと中休みの話を。
 不思議なことだが、著作権は著作権者だけが行使し得る絶対不可侵の神聖な権利であるという考え方が世の中には存在している。
 私はこれを勝手に著作権神授説と名付けているが、単純で自明のように見え、かつ法律の裏付けもあるように思えるので、権利者は無論のこと、知財の有識者と呼ばれる学者にも似たような考えを振りかざす者がいる。

 そして、昨今の法改正騒動を見ていると、この著作権神授説がひどい悪影響を及ぼしているのではないかと思えて仕方がないのだ。
 そもそも、知的財産権は、文化や産業の発展のために、これくらいは創作者を守ることが必要ということから出てきたもので、絶対的なものでも何でもない。有体物の私有財産の絶対性からそう類推するのかも知れないが、有体物の私有財産より無体物の知的財産の世界が遙かに人工的であることは、よく考えてみれば、知財侵害の損害認定が本質的には不可能であることからも分かるだろう。(本当は有体物の私有財産すら絶対的なものではないのだが。)

 この著作権神授説の最も質の悪いところは、これが思考停止しかもたらさないことである。
 この原則からは、ダウンロードでも何でもとにかく許諾を得ていない複製は全て禁止という結論しか出ようはない。補償金の話を取ってもそうで、著作権神授説に立つ限り、私的な形であれ、著作権という神聖な権利を侵す以上、必ず何らかの代償が必要という結論しか出て来ようがない。しかし、ダウンロードを禁止すれば善意のユーザーの情報入手の妨げとなり、新たな機器に補償金を課せば、それはコストとなって機器の値段を上げ、必ず機器の売り上げを減少させ、社会的・経済的に見て好ましくない影響を与えるのだ。この影響を上回る形で、何らかの益が社会全体にもたらされるのであれば、このような法制度は全体から見て是認されるが、そうでない限り是認されてはならないのである。
 文化の発展は経済的な価値に換算できる訳ではなく、産業の発展は文化的価値に換算できる訳ではないが、文化的・経済的・社会的影響を全て考慮に入れた上で、本当に国とって好ましい方向性は何かということを決めるのが本当の政策判断であろう。知財の有識者と呼ばれる人達も皆知財の観念に凝り固まっていて、このような本当に広い見地から物事をとらえることが出来てないことが残念でならない。

 敢えて言うなら、インターネットにおける情報の自由な流通を確保した方が全体にとって良ければ、インターネットにおける著作権を完全に無くすという法制だってあり得るのだ。その場合、情報の自由な流通を認めないことで成り立ってきた今までのコンテンツ産業は窮地に立たされるかも知れないが、自由な流通を前提にしたコンテンツがそれを上回る勢いで作られ、それによってより文化と産業が発展するなら何も言うことはあるまい。無論、滅び行く産業への対策は別途、地道に行う必要があるが。
 インターネットの登場で流通コストが劇的に下がり、情報の発信にも流通にもコストがほとんどかからなくなった今、文化の発展の主要な推進力はもはや著作権法による保護ではなくなっていることを皆が理解した上で、あらゆる検討が行われることを私は望む。

 著作権神授説を信奉する世の著作権原理主義者達に私は告げる、目を覚ませ、著作権は絶対不可侵のものではない!

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