第2回:知財・情報・独占
~誰もが分かっているようでいて実は誰もよく分かっていない三題噺~
さて、より具体的ではあるが、やはり前提の話にもう少しおつきあい頂きたい。
知的財産とは何であろか。単純なようでいて難しいこの問いにどれくらいの人間が真摯に取り組んでいるだろうか。法律屋は法律で決まっている人工的な世界と認識し、普通の人は、何となく所与のものとして認識しているのだろう。
特に、人間が生み出した知識、すなわわち情報に何らかの価値があり、財産として認識されるということはいかなることであるか。この概念の認識は、人によってかなりずれているに違いない。
ここでは、情報に価値がある場合として、情報そのものが価値を持つ場合と、情報そのものではなく、その利用に価値がある場合の二つに分けて考える。
(1)情報そのものが価値を持つ場合=情報そのものを独占し、知的財産を生む
誰でも知っている情報に価値はなく、情報そのものが価値を持つには、情報の偏在が存在していなければならない。このように情報そのものから何らかの財産的価値を引き出し続けようとする者は、自身の情報を誰かに伝えた後も何らかの方法でこれをコントロールし、その偏在を維持し続けなければならない。
このようなコントロールは、法律によっても良いし、契約によっても良いし、技術によっても良いし、時間・空間によっても良いが、人が知り得た情報のさらなる伝達を妨げることは、人の精神的自由を束縛することに他ならず、現実問題、最後、情報そのもののコントロールはほとんど不可能であると言っても差し支えない。
(2)情報の利用に価値がある場合=情報の利用を独占し、知的財産を生む
情報を何らかの形で利用することに価値が生じる場合もある。この場合、情報そのもののコントロールをせずとも、その利用をコントロールすれば、その財産的価値を維持することが可能である。ただし、この利用が純粋に情報のみの世界に閉じる場合には、上記の場合と同じくコントロールが困難となることは言うまでもなく、現実には、物の世界に対する情報の利用をコントロールすることが基本となるであろう。
さて、ここまで説明してきたところで、今現在、法律によって存在している知的財産を考えてみると、基本的に知的財産各法は(1)のケースのように情報そのものではなく、(2)のケースのように情報の利用をコントロールするという考え方に基づいて立てられていると分かるだろう。
特許であれば、特許情報を公報という形で誰にでも見られる形で公開し、特許された技術について、その業として特許を利用した物の販売等を独占することになる。意匠・商標等についても、この点においてそれほど大きな違いはない。
ただし、著作権法だけは特殊である。
著作権法でも、オリジナルと複製が区別されていた時代は、オリジナルに対する複製という利用形態をコントロールすれば良く、上記(2)のケースと同様に考えられた訳だが、情報技術の進展によって、著作物そのものの情報化が進んでしまった。著作物は単なる情報となる方向へ、そのコントロールは不能となる方向へと現状突き進んでおり、これにあらがう形で最近の著作権保護強化の主張は上記(1)の情報独占を求める方向へと足を踏み入れつつある。
私は、現在の文化と産業を考えて拙速に保護強化を行い、情報の作成者あるいは政府が情報そのもののコントロールを行えるような情報統制国家をもたらすよりは、情報そのもののコントロールはあきらめ、情報の利用のみに独占を閉じた方が、長期的には文化的にも産業的にも良いと考えている。今の法学者・行政府担当者・立法府担当者の頭の固さから考えると、著作権において、情報の利用とはいかなるものかということが考えられることは今後10年経ってもあるかどうか疑わしいが、このことを考える際には、情報そのもの伝達が複製行為によってなされることが当たり前となっていることを踏まえ、その基礎となる利用態様を複製行為そのものとはなし得ないことを出発点としなければならないだろう。
もう少し著作権法の特殊性について書きたいと思っているところだが、次回は、少し寄り道をして、放送法と通信法の本質について少し書く予定。
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