« 第58回:フィルタリング利権争奪戦の無様 | トップページ | 第60回:イギリスの違法ダウンロード対策素案について »

2008年2月13日 (水)

第59回:無視する技術、寛容の徳

 ある公表情報について具体的な被害者が存在し、そこに具体的な加害行為があるのなら、表現の自由や通信の秘密などの基本的な権利が制限されることにもそれなりの妥当性はあるだろう。しかし、単に、有害な情報に毒される者がいるかも知れないだとか、自分はそのような表現を見たくないし他人にも見せたくないだとか言った恣意的かつ不合理な理屈で、一般的かつ広汎な情報規制を正当化しようとすることには私は断固反対である

 大体こうした理屈を持ち出す者は、「有害」や「違法」と言った情報に関する価値判断・道徳判断が、個々人の判断を超えて客観的かつ普遍的に規定できると考えているようなのだが、これほど間違った考えもない。それがどのようなものであれ、情報に関してある者の道徳判断・価値判断のみを正しいとして、他の情報、すなわち他の道徳判断・価値判断を法律で規制し、情報へのアクセスそのものや情報の単純所持を犯罪として禁止することは、ほとんど新たに思想犯罪を作るに等しい、極めて危険なことである

 今なお多数派の思想によって少数派の思想が迫害されても良いと考える人間がかなりいるのは実に不思議だが、思想弾圧・言論統制の人類と同じく長い歴史の中で、平和と人類の福祉のためにつちかわれてきた思想と行為の切り分けを無視し、行為を超えて思想を犯罪とすることは、人類の歴史に対する冒涜に他ならない。

 ある公表情報に、脅迫なり、名誉毀損なり、不正誘引なり具体的な被害が見える話であれば、その情報を公表した者を取り締まるべきというだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもない。また、このようなケースにしたところで、それが情報である以上、その被害は常に個人的かつ相対的なものである。

 ポルノ規制に関しても、これは道徳判断・価値判断そのものであり、一般的かつ普遍的な基準は立てようがない。19世紀フランスではボードレールやフローベールの作品が猥褻と判断され、断罪されているが、今「悪の華」や「ボヴァリー夫人」を読んで、どれほどの者が猥雑観念を刺激されるだろう。日本でも、「悪徳の栄え」や「チャタレー夫人の恋人」、「四畳半襖の下張」といった作品群が最高裁レベルで猥雑とされているが、これらについて今出版されている完全版が摘発されたという話も聞かない。自称良識派が何と言おうと、もはや今となっては、具体的な被害者を想定できない文章や絵のみによる性表現の規制を正当化するに足る一般的なモラルはほとんど失われているし、これらは全く規制されるべきではないだろう。

 また、特殊なケースを取り上げて悪影響が云々と言う者もそれなりに見かけるが、全体として、性表現の規制と性犯罪の間に何らかの因果関係を見い出すことはできないのであり、具体的な被害者が想定できるポルノの販売等の行為については、既に全て規制の対象となっていることを考えても、これ以上の法規制は公権力による恣意的な運用による危険性を増す、規制のための規制にしかならないに違いない。

 その思想・表現がどんなものであれ、具体的な被害・加害行為を超えて、マイノリティの思想・表現そのものを犯罪とすることだけは絶対にしてはならない。有害な情報に毒される者がいるかも知れないだとか、自分はそのような表現を見たくないし他人にも見せたくないだとかいうような、情報における価値判断・道徳判断の相対性が全く分かっていない、自己の判断を他人に押し付けるだけの主張は、情報規制の要否の判断において全く取り上げるに値しないのである。

 伝達手段となるものが、本だろうが、テレビだろうが、インターネットだろうが、情報の本質には変わりはない。情報の価値判断・道徳判断は常に受け手の側で個人的になされるものである。気にくわない情報があるのなら、見なければ良い。保護下の子供に見せたくないなら、見せなければ良い。自分に実害が及ぶのであれば、訴えればよい。だが、その判断は常に個人的かつ恣意的で相対的なものであり、他人に押し付けられるものではない。

 こればっかりはいろいろな情報に触れる中で自ら体得するしかないことであるが、このように自ら情報を無視・取捨選択する技術、取捨選択した情報を元に自分なりの判断をする能力、そして自分の判断を他人におしつけないという寛容こそ、この情報社会において必須の能力だろうと私は考えている。

 少なくとも、日本の政策決定の中枢あるいはその近くでは、情報の特性をきちんと理解し、情報の毒の伝搬だとか、単なる生理的嫌悪感だとか、恣意的かつデタラメな理由で情報そのものの規制を言い出すようなことがなくなることを私は願ってやまない。

 さて、とりとめのない話はこれくらいにして、ドイツでのメーカー対著作権管理団体のマルチファンクションプリンターに関する私的複製補償金賦課の是非を問う裁判の判決が出されたという記事(最高裁のプレス記事ドイツ語の記事1記事2)があったので紹介しておく。この記事によると、判決では、マルチファンクションプリンターで補償が必要なほどの数の著作権で保護されている作品のコピーをしているとは考えられない、あるいは、機器の値段に対して不当に補償金額が高すぎるといったメーカー側の主張は退けられ、旧法(ドイツの補償金改革については第15回に書いた。)では、著作権で保護を受ける作品がコピーされる程度や機器の値段などは考慮されるものではなく、2007年末までに販売した分の補償金については旧法の規定通りに支払うべきであるとして、メーカー側敗訴を言い渡したようである。また、新法についてはこれからのこととして判断を避けたようである。確かに、法律を厳密に字句通り解釈して、最も手っ取り早い判決を出せばこうなるだろうが、これまた将来に禍根を残すだけのひどい判決である。(なお、単体プリンターについては、第38回で書いた通り、補償金賦課の対象とならないことが確定している。CDなどのデュプリケータやPCに関する判決もこの春くらいには出されるようである。)

 なお、前回の話を書いた後で、IT安心会議というご大層な名前の関係省庁連絡会議でまとめられた「インターネット上における違法・有害情報に関する集中対策」という位置づけの良く分からないペーパーが存在していたことに気がついた。ネット規制絡みの話では何かの参考になるかも知れないと思うので、念のため、ここにリンクを張っておく。

|

« 第58回:フィルタリング利権争奪戦の無様 | トップページ | 第60回:イギリスの違法ダウンロード対策素案について »

規制一般」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/429615/10468329

この記事へのトラックバック一覧です: 第59回:無視する技術、寛容の徳:

« 第58回:フィルタリング利権争奪戦の無様 | トップページ | 第60回:イギリスの違法ダウンロード対策素案について »