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2007年10月24日 (水)

第9回:私的複製の権利(著作権法教科書読み比べ)

 前回の話は、経緯などを書いていたら少し長くなってしまったが、要するに、「ユーザーに納得のいく法的・経済的根拠を示さない限り補償金拡大はあり得ない。私的複製の自由を制限するDRM(コピーワンスやダビング10のような)がかかっている機器・媒体に、さらに補償金が課金されることもあり得ない。」ということである。
 さて、知財法大権威の中山信弘先生の著作権法が出版されたこともあり、今回は、ちょっと手元にある著作権法の教科書から、私的複製関係の記載について読み比べをしてみようかと思う。(個人的には他人の権威でどうこう言うのは嫌いなのだが、こんなことも世の中の役に立つかと思ったので。)
 以下の引用は、各先生方が私的複製(著作権法第30条)の趣旨について特徴的に書いている部分を批評のために私が抜粋したので、どの教科書からも私的複製に関する記載全体を取ってはいないことを始めにお断りしておく。

(1)加戸守行著「著作権法逐条講義」(五訂新版・2006年3月著作権情報センター刊)
 著作権の教科書として、この本を外すことは出来ないであろう。中でも、気になるのは、

「旧著作権法におきましては、複製手段を手書きだけに限定しまして、器械的化学的方法によることを認めておりませんでしたけれども、実際上は家庭内の行為について規制は困難ということで、第30条は複製手段のいかんを問わず複製を認めることと改められたわけであります。もちろん、本条を根拠として作作成された複製物については、後で述べますように第49条の規定によって目的外使用が禁止されておりますが、そのこととは別に、個人的使用のためであるからといって家庭にビデオ・ライブラリーを作りテレビ番組等を録画して多数の映像パッケージを備える行為が認められるかといいますと、ベルヌ条約上許容されるケースとしての「著作物の通常の利用を妨げず、かつ、著作者の正当な利益を不当に害しないこと」という条件を充足しているとは到底いえないという問題が出てまいりましょう。本条の立法主趣旨が閉鎖的な範囲内の零細な利用を認めることにあることからすれば、度を過ぎた行為は本条の許容する限りではないと厳格に解すべきであります。」(第225頁より。赤字強調は私が付けたもの。)

というところである。
 加戸先生によれば、ビデオのライブラリー所有者は全員、厳密な意味では著作権法違反ということになってしまう。以前はどうだか分からないが、昨今のビデオ(DVD)の普及を考えるにと相当数といるであろう録画のヘビーユーザーを全て著作権違反者としてしまうのは大きな違和感を覚える。
 確かに、立法趣旨からすれば、零細な利用というところにも重点が置かれていたのであろうと思われるが、その後の複製機器の普及の実態から考えて、私的複製の権利制限の趣旨の重点は零細であるというところから閉鎖的であるということに移っているのではないだろうか。ビデオが普及していなかった時代ならいざしらず、ビデオがない家庭の方が少ないという時代に、このような厳格な解釈にずっとしがみつくことは間違いであろう。複製機器が当たり前に家庭にある時代に即した、私的複製の意味とは何かが今問われているのだから。

(2)作花文雄著「著作権法」(第3版・2004年10月ぎょうせい刊)
 さて、次はこれもまた有名な教科書で、同じくらい分厚い本のであるが、中には、

「第1に、私的領域における教養・娯楽・文化活動を円滑になし得るようにするため、私的使用のための複製(第30条)が認められている。なお、基本的には、これまで、私的領域内での複製行為による権利者への経済的利益への影響はさほど存しないものと考えられてきたが、近年の複製機器の発達により、その見直しについて種々の議論がなされている。」(第309頁より。赤字強調は私が付けたもの。)

というくだりがある。
 ここでは、作花先生が、私的領域に「教養・娯楽・文化活動」があるとしていることに注目したい。例え極少数のサークルであったとしても、そこには文化活動が存在しており、それを守る意味も私的複製にはあるのだ。
 このことは、ここで取り上げた他の教科書には書いていないが、私的複製の権利制限をなくすことは文化の発展につながらないということを考える上で、一つのキーとなる考え方ではないかと思う。

(3)斉藤博著「著作権法」(初版・2000年3月有斐閣刊)
 上二つを読みこなせる者にとっては、物足りない薄さかも知れないが、やはり極めて有名な先生の本である。私的複製の趣旨については以下のように書かれている。

「そもそもは、個人的にまたは家庭内等で使用する程度であれば著作物等の複製も権利者に及ぼす影響は少なかろうという配慮があったであろうし、法律が個人の領域や家庭等に入り込むことを避けようとした面もあったであろう。そうであれば、無許諾・無償という最も厳しい権利制限を課すことが妥当である。しかし、その後の複製技術、とりわけ録音・録画技術の普及は利益状態を徐々に変え、権利者に補償金を支払うことによって利益の調整を図る途が模索されるようになった。」(第217~218頁より。赤字強調は私が付けたもの。)

 斉藤先生は、権利者に及ぼす影響が少なかったため、法律が個人や家庭内に入り込むのを避けるという趣旨から、無許諾・無償という最も厳しい権利制限を課すことが妥当だったとしている。
 これだけの文章から論理的なつながりを言うのは無理があるかも知れないが、斉藤先生は、著作権法のような私法が、個人や家庭の領域に入り込むことは避けるべきであるという考え方を強く持っていたのではないかと思う。

(4)渋谷達紀著「知的財産法講義Ⅱ著作権法・意匠法」(第2版・2007年6月有斐閣刊)
 特許法なども含めて書かれている知的財産法講義の中の一冊であり、私的複製についても以下のように、特色のある書きぶりとなっている。

「複製権が制限される理由は様々である。たとえば、①私的使用のための複製を権利行使の対象としても、侵害行為の発見が難しく、権利の実効性に問題がある、②侵害行為を発見したとしても、個々の侵害事例については、コストとの関係で権利行使の動機が不足する、③たまたま権利の行使を受けたものと多数のそうでない者との間に、事実上の不公平が生じることも問題である、④遵守されない法を制定することは、法を軽視する風潮を生むおそれもある、などの理由が考えられる。また、今日のように大量のデジタル複製が行われるようになる前は、⑤著作権者に与える影響が軽微である、といったことも指摘されていた。」(第247頁より。赤字強調は私が付けたもの。)

 ここで、渋谷先生は、権利の実効性に問題があること、権利行使にコストの問題があること等をあげているが、中でも、たまたま権利の行使を受けたものとそうでない者の間に、事実上の不公平が生じることを問題視しているのが特徴的である。
 実際、この不公平は、著作権法のみならず、他の知財法でも問題になることであろうが、やはり著作権法が個人をも対象にしていることから、特にあげているのではないかと思う。特に統計を持っている訳ではないので何とも言えないのだが、確かに著作権法は、他の知財法と比べてもみせしめ的な訴訟が数多く提起されているようにも思われ、無視して良い論点であるとは思えない。
 また、いわゆる法を軽視する風潮、法の弛緩についても書いてある。守られない、あるいは守ることができない法律をいくら書いても百害あって一利なく、著作権法というあらゆる個人の文化的営為に関わってくる法律において、法を弛緩させることは、著作権そのものに対するモラルハザードに繋がる危険性がある。どんな法律であれ、法律の根源となる社会規範・コモンセンスを越えては存在し得ないのであって、この点も法改正を議論するときには、必ず考えられるべき点であろう。

(5)中山信弘著「著作権法」(初版・2007年10月有斐閣刊)
 いよいよ中山先生の本であるが、私的複製の趣旨については割とオーソドックスで、この本の面白さが完全に出ている箇所ではないのだが、引用すると、

「30条の立法趣旨としては、次のような点が考えられる。私的領域内で行われる複製は全体的にみてみ微々たるもので権利者に与える影響は少なく、またそのような行為は補足が困難である上、仮に侵害を発見しても個々の複製による損害は少なく、また獲得できる損害賠償額を考えると事実上請求の対象とはなりにくい。また権利者と複製者の交渉の場がなく、事前に両者が契約を締結するには余りに交渉コストが掛かりすぎる。また従来のアナログの複製は精度が落ち、そのような劣化した複製が権利者の利益を不当に害するほどではないとも考えられた。侵害の把握、安価な交渉・課金のような技術上の困難性、あるいは法の実効性の問題については、技術の発展によりある程度は解決可能であるかもしれないそれに対して、そもそも個人の自由という観点から、著作権法が私的領域にまで干渉することが果たして妥当といえるのか、あるいはプライバシーとの関係はどうなるのか、という根本的な問題は残る。」(第244頁より。赤字強調は私が付けたもの。)

という部分になるだろう。
 中山先生は、技術の発展による解決の可能性についても言及しているが、著作権法が私的領域まで干渉することの是非は、最後まで問題になるとしている。
 確かに、著作権法による個人や家庭に対する干渉がどこまで妥当なのかというのは法律的にはかなり本質的な問題である。しかし、この点は未解決のままに、技術的に可能であるからという理由で、著作権保護技術は着実に家庭の中に浸透しつつある。この点は今ここで整理することは到底できず、今後の技術・法制度の動向も考えながら、本質的な議論を積み重ねていくべきところだろう。

(6)最後に
 まとめるのもおこがましい先生方が並んでいるのだが、先生方があげている私的複製を認めるべき理由を並べておくと次のようになるだろうか。

①個人の自由・プライバシーの問題から、そもそも著作権法のような私法が私的領域に踏み込むことは避けるべきである。
②私的領域の文化活動も守られるべきである。
③侵害の発見が難しく、権利の実効性に問題がある。
④権利行使のコストが見合わない。
⑤事前交渉のコストも見合わない。
⑥微々たる複製であり、著作権者に与える影響が軽微である。
⑦守られない法を制定することは、法の弛緩に繋がる。
⑧権利の行使を受けたものとそうでない者との間に不公平が生じる

 この中でも、やはり①②は本質的な問題として、私的複製に関する国民的な議論の中で深められて行くべきポイントとなるだろう。
 さらに、実効性やコストの問題、権利者に与える影響等についても、私的録音録画小委員会での利害関係者のすれ違いの議論だけではなく、真に国民的議論が提起されることを期待したい。

 なお、教科書の中でも特に、中山先生の本は例外的なほどに面白く、興味のある方は是非買って熟読されることをお勧めする。また上にあげた他の教科書も、著作権法を勉強しようと思うなら、全て買って損はないものばかりなので、もしこのブログを読んで気になったものがあれば、購入を検討してはいかがだろうか。(どれもそれなりの値段はするので財布が痛むことを覚悟しなければならないだろうが。)

 さて、以上までで教科書に関する話は終わりだが、著作権法には著作をしない者に権利を与える理屈はない(法目的には公正利用が入っているが)ので、単なるユーザーには何の権利もないというところが、何ともユーザーとして気分が悪いところである。そのため、私はユーザーとして地道により広汎な公正利用の権利を求めて行きたいと思っているが、現行法でも、コモンセンスにのっとり、正規に入手したコンテンツは、私的領域において原則自由かつ無償で楽しめることの確認を是非求めたいと思う。

 次からも、しばらく数回に渡って、主要国の著作権法の私的複製に関する権利制限規定の比較をしてみようかと考えている。

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